かのローマ皇帝マルクス・アウレリウスは「自省録」のなかで「あたかも一万年も生きるかのように行動するな」と説いています。私たちには寿命があり、どんな立場の人間でも等しく日々を死に向かって時間が進んでいます。

子供の頃から、電子レンジで食べ物を温めた際に、「食べ物が温まった」と感じると同時に、「世界の時間が食べ物を温める前より1分進んでしまった」みたいなことを考える癖がありました。

心底、面倒くさい子供だったと思います。

そんな僕が「アラフィフ」を意識するようになったここ数年は、決して希死念慮のようなものではありませんが、だけど、なんとなく「もういつ死んでもおかしくないんだろう」と考えることが増えました。

その一方で、そういう自覚があるからといって、少し早めに終活に向けた準備をしているかというとそんなことはありません。

情報の即時性と予言の関係」でも触れましたが、ADHDを持つ僕は事前の対策の重要性を理解していても、不測の事態に備えて常に準備をするのが得意ではありません。天災や病気など、いつやって来るか分からないことのために計画を立て、その状態を維持していくことに強いストレスを感じるようです。

ただ、そんな僕がここ数年感じている掴みどころのないこの感覚は、自分に残された「人生の残り時間」を意識するようになっているのだろう思います。

確実に人生の折り返し地点は過ぎている

今後、僕が大病を患わず、事故に遭わず、寿命を全うできるとしても、健康寿命や平均寿命で考えるとどんなに長生きできても70歳から90歳の間に亡くなるはずです。

その場合、35歳から45歳の間に人生の折り返し地点を迎えるわけですが、僕はすでに折り返し地点を通り過ぎていると実感しています。

会社員は労働安全衛生法によって健康診断が義務付けられていますが、個人事業主は仕事の受注だけではなく、健康診断を受けるかどうかすらも自由というか、多くの部分において「自己責任」がついて回ります。

とはいえ、「個人事業主は全てにおいて自由だ!」などと言っている場合ではなく、家族や自分のためにも健康診断は受けるべきですが、「忙しいから」「再検査になったら怖いから」と何かと理由をつけて先送りし続けてきました。

そのため、僕は人生の折り返し地点を、はるか昔に通り過ぎてるかもしれません。

「アラフィフ」を実感して急に人生の残り時間を意識するようになったのか、というとそれは少し違うように感じています。

どちらかというと、自分の子供の成長や友人たちとの健康の話が増えたこと、そしてなにより、これまで「来年には死んでいる」と毎年「死ぬ死ぬ詐欺」を繰り返していた地区のご老体の何名かが彼岸に旅立ってしまったことが僕の気持ちに何かしらの変化を与えているような気がします。

加齢によって死生観が変化している

これは根拠のない勝手な妄想ですが、僕はどんなに長生きできても、せいぜいあと30年ぐらいだろうと感じています。日数にすると約10957日、時間にすると約262968時間と、余裕があるのかないのか分からない感じです。

80歳まで生きたとしても、29220回程、寝起きすれば人生が終わると考えると、そんなに少なくもないのでしょう。

ただ、ここ数年の僕の死生観の変化は自分の加齢に加えて、半年前までケラケラと会話をしていたご老体が急にいなくなるという「現実」が少なからず影響しているはずです。

地区の行事で、「体中が痛い。死ななきゃ治らん」と話すご老体に「またまた。もう少し頑張ってくださいよ」というやり取りをした1ヶ月後に別のご老体から「入院したらしいよ」と聞き、さらに2ヶ月後に「亡くなったらしいよ」と聞くことが増えてきました。

最近はお葬式を家族葬で執り行う方が多く、いつも話をしていたご老体が知らないうちに入院をして、知らないうちに亡くなっていることもしばしばです。

よく動くご老体が減り始めている

職人がいたから成り立っていた地区の行事」でも触れましたが、よく動く地区のご老体が目に見えて弱々しくなり、そして少しずつ旅立っています。

「よく動く地区のご老体」というのは、定期的に補充されるものではなく、20年前はよく動く60代だった区民が、よく動く80代になっただけの話です。

そのため、年々、地区の大工や鳶、重機の操作、電気工事関係の資格を持つご老体がいなくなっていくことは、属人化で機能している地域コミュニティとしてどこまで耐えられるか…地区のどの行事は続けて、どの行事は廃止するのか、そういうことを真剣に考えなければいけない時期に突入したと感じています。

一縷の望みとして地域コミュニティにも、「262の法則」が適用できるのであれば、もしかすると「平均的な中位6割」が「優秀な上位2割」として、「よく動く地区のご老体」に生まれ変わる可能性は期待できますが、実際は難しいように感じています。

歴史の偉人が残した言葉の意味を考える

それはそうと、このブログの冒頭でも書きましたが、ほかにも「漠然とした未来の話をしよう」と「オオキンケイギクはいつ日本固有種になるのか」でも、マルクス・アウレリウスの「自省録」の一節「あたかも一万年も生きるかのように行動するな」を取り上げています。

僕はこの言葉が持つ「一万年」という絶対にたどり着けない途方もない感覚が好きなのですが、もし、マルクス・アウレリウスが日和って「あたかも300年も生きるかのように行動するな」と書き残していたとしたら、「うん、まぁそうだね、300年も生きられないしね」という感想で終わっていた気がします。

自省録は古代ギリシア語で書かれ、「一万」は「ミュリア(μύρια)」と表現されています。現代では「10000」はそこまで大きな数字とは感じませんが、当時は「たくさんある」「無数にある」と解釈されていたのではないかと考えています。

きっとそれは、日本人の千枚通しやハリセンボンの「1000」、八百万の神の「800万」と同じような感覚なのだと感じています。

それが英語に翻訳される際に「Ten thousand」となり、さらに日本語に翻訳される際に「一万年」となり、永遠や無限としての意味合いが具体的な数字になったのだろうと考えています。

ただ、それにより「一万年」の永遠性が下がったのかというと決してそんなことはなく、アウレリウスがこの言葉を残してから、まだ2000年も経過していないことを考えるても、この言葉が持つ意味は悠久の時を生きている気がします。

最後に

人生の折り返し地点を過ぎて、人生の残り時間を考えてみたり、歴史の偉人の言葉に触発されて悠久の時を感じてみたり、僕の思考は落ち着くことなく、あっちを見たりこっちを見たりしています。

それでも、40歳を過ぎてアラフィフが見え隠れし始めたあたりから、自省録に倣って「あたかもあと30年生きるかのように行動するな」と考えるようになりました。

アラフィフまですくすくと育って分かったことは、「歳を重ねる」というのは、だんだんしっかりとした大人になるということではありませんでした。世間的には「しっかりしたおじさん」のように見えるかもしれませんが、中身はいい加減そのものです。

結局、人生とは10代や20代の頃、もしかしたら5歳ぐらいの頃の感覚のまま、身体の節々が痛くなることを受け入れたり、人生の残り時間への恐怖をなんとか自分なりに咀嚼して、不可逆な時間をひたすら前に突き進んでいくだけなのかもしれません。

何かを成し遂げたいわけでも、何かを残したいわけでもなく、ただ、ルーティンのような日々を繰り返しながら…

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2004年よりWebサイト制作に携わり、2010年から山口県山口市で、Webサイトの制作や更新を専門とする個人事業主として制作業務を行なっております。

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