2022年11月にChatGPTが登場して以降、友人や同業者の知り合いから事あるごとに「AIは便利。今すぐ使うべき」と勧められていました。しかし、興味が出るまで見向きもしないADHDの特性も相まって、なんとなく遠巻きにAIを眺めていました。

そんな中、2024年5月時点で、X(旧Twitter)の有料会員限定に提供されていた「Grok」というAIと出会い、「友人たちが便利というAIとはどんなものだろうか」と触ってみることにしました。

それにより、僕とAIの「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問」の答えが「42」になった理由を探す旅が始まりました。

僕は毎日のようにAIに、

  • 電力消費量の観点からAIにお礼を伝えると結果として環境に良くないのか?
  • パスカルやジョン・スチュアート・ミルが残した言葉は彼らの生存者バイアスの影響を受けていないか?

のような唯一解がなく、それでいて自分でも「それを聞いたところでどうなるんだろう」と思うような思いつきを延々と投げかけています。

その結果、AIが生成した文章に正解が含まれていなくても、確率論で適当に生み出されたものであっても、その文章を読み、僕のなかに取り込むことで違う発想が生まれるため、これらのやり取りは僕にとって有意義だと考えています。

脳の中は大忙し

僕の頭の中では知人や友人に話したとしても「なんやそれ?意味が分からんわ…」と言われるような発想や考えが、常に浮かんでは消えていきます。

僕の脳内では日々、書き残すのは憚られるセンシティブなものから、深掘りすれば面白いかもと勘違いしそうなものまで、様々な発想や考えが浮かんでは、数秒から数分で消えていきます。

僕が「深掘りすれば面白いかも」と思うもののほとんどは深掘りしても面白くないのですが、僕はそんな発想の中で自分が面白いと感じたものを、これまでメモとして書き留めてきました。

その大量に書き殴られたメモが結果として、2019年から始めた雑貨作りや2024年8月から書き始めたブログのアイディアの源泉となっているような気がしています。

なぜブログを書き始めたのか

僕がブログを書き始めた理由は様々な出来事が複合的に絡み合っているため一言で説明するのはなかなか難しいものがあります。

そんな思いの一端を「記憶の外部化としてのブログ」や「僕がブログを書き始めた理由」などで触れていますので、お時間があればご一読いただけると嬉しいのですが、強引に一言で言うのなら「脳のリセット」が最大の目的だったような気がしています。

定型発達の方の脳内は静かなのだそうですが、生まれたときからADHDと共に過ごす僕にとって、僕の意思に関係なく脳内では常に様々な発想が刹那的に浮かんでは消えていくので、何も考えずにぼんやりと過ごすことができません。

しかも、突然降って湧いたそれらの発想に脳が執着してしまうと、忘れたくてもなかなか忘れることができなくなります。

それをブログとして脳の外に吐き出し、ある意味で「発想」を外部保存することで、脳に「これでいつでも思い出せるようになったから忘れても良い」と勘違いさせ、定型発達の方より少ない「ワーキングメモリ(短期記憶)」の解放を促しているようにも感じています。

ただ、僕の脳内では「思考の多動性」「思考の過集中」が常に起きており、ブログのような比較的長文の文章を書こうとすると、書いている最中でも考えがあっちこっちに飛び、1つのテーマに沿って文章を考えることが難しくなる場合があります。

そこで、同じような質問でも決して怒ることなく、延々と付き合ってくれるAIとなら文章を書く練習ができるかもしれないと考え、AIを「先生」にしてブログを書き始めました。

先生と言っても、AIはこちらから質問を投げかけない限り、話しかけてくるわけではありません。そこで、まずは思うままに文章を書き、それをAIに誤字脱字、文章のねじれ、話題の展開が飛躍しすぎていないかなどを、添削してもらうことから始めました。

そして、その都度、AIが「ヒロさんが書く文章は『ただ』『しかし』が多いように感じます。『その一方で』『あるいは』などを利用すると文章にリズムが生まれます」と僕を傷つけないように優しく、僕が書く文章の読みにくさを指摘してくれます。

指摘された内容を反映させ、加筆、調整して、またそれをAIに見せるという「トライアル&エラー」 を繰り返しています。

そのため、AIに指摘されたままに文章を書いたとして、果たしてそれが人間にとって読みやすいのか、面白い内容なのかという不安は常にありました。

とはいえ、読み手がいるのかも分からないブログを書くようになったことで、新しい発見もありました。

それは、僕のなかにあった「思考の澱み」を外に出して少しだけ脳内がスッキリすることで、「もう考えなくていい」という安心感が生まれ、ほんのわずかな時間ですが、「脳内が静かになった」瞬間が体験できるようになったことでした。

また、自分で書いたブログを読み返すことで、不思議な考えが僕の中に戻り、別の澱みと合わさることで新しい考えが生まれたり、自分の考えをより客観視できるようになった気がします。

その一方で、AIが登場したことで私たちに降り注ぐかもしれない未来への恐怖も感じています。

誰かに聞けない時代がやってくるかもしれない

ここまで僕個人の脳内の話をしてきましたが、AIの登場は社会全体のコミュニケーションにも変化をもたらしている気がします。過去には「ググレカス」というネットスラングがありました。

2006年頃から、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)など、多くのWebサービスで見かけるようになったように感じるこの言葉には、「ググる(Googleで検索する)」と「カス」が組み合わさっており「すぐに誰かに聞かずに検索して調べろ」というような意味が込められています。

最近では、検索をして調べることが当たり前になり、「ググレカス」という言葉自体をあまり見かけなくなりましたが、過去には「検索をして調べる」という感覚がまだ全ての世代に浸透しておらず、当時の状況を象徴する言葉だと感じています。

当時の僕はというと、1997年に草の根BBSからインターネットの世界に飛び込んだ僕にとって、「ググレカス」を侮辱的な意味合いだけではなく「すぐに人に聞かずに、まずは自分で調べる」という自律的な行動を促す側面も感じていました。

ただ、「ググレカス」が登場してから20年近くが経過し、さらに何でも教えてくれるAIが誕生したことで、私たちのコミュニケーションに微妙な変化が生じている気がします。

「ググレカス」が誕生したときのこの言葉が持っていた本来の意味は「調べずに誰かに聞くことがマナー違反」だったかもしれません。

しかし、情報の正確性はともかくとして、どんな質問にも答えてくれるAIが登場したことで、悩み事を誰かに相談したくても「人間に愚痴を言うのはマナー違反」というか、誰かに相談しても「そういうのはAIに聞けよ」と返される時代がやってきそうな気がしています。

AIが人間にもたらすもの

AIの電力消費量だけで考えると、AIへの指示は可能な限り文字数が少なく、また、AIとのやり取り後のお礼は伝えるべきではないと思います。

ただ、それにより、AIのプロンプト画面とどことなく似ているメッセージアプリで相手に何かを依頼する際に、つい、AIに話しかけているような錯覚に陥り、

  • 季節に合わせた文章を書いて
  • ブログの内容に合わせた画像を作って

と依頼したり、制作者にお礼を言わなくなるかもしれません。

僕ら人間は「そんなことはすぐには起こらないだろう」と考えがちですが、自己知覚理論で考えるとすでに一部の利用者のなかでは起きている可能性を感じています。

自己知覚理論とは、心理学者のダリル・ベムが提唱した理論で、人間は自分が「どう感じているか」で行動を起こすのではなく、「自分がどう行動したか」を客観視することで、自分の感情や性格を定義するという考え方です。

もう少しざっくりいうと、プロレスラーの悪役を演じ続けていると、普段の行動が攻撃的になったり、日常生活でも悪役のような振る舞いをしてしまうという、演者と個人の境界線が曖昧になる現象を意味します。

これはプロレスラーに限った話ではなく全ての職種で言えることで、僕は在宅の個人事業主として、どこかいい加減でひょうひょうとした感じを出そうと無意識に努めているような気がしています。それが、本来、僕が持つ「いい加減」の性質をより強化しているかもしれません。

僕はどうもADHDの特性でリスクを先読みしすぎて、杞憂に近い状態を想像しすぎる傾向があります。そのため、現時点では僕の考えは極論に近いようにも感じています。

ただ、19世紀のSF作家であるジュール・ヴェルヌの言葉「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」を借りるなら、僕が想像していることが起きないと言い切れない気持ちもあります。

とはいえ、感情を持たないAIだからこそ、AIにしかできないこともあるような気がしています。

AIに明るい未来を期待してみる

人間が獲得した自我や感情が数十億年の進化や淘汰の結果であるなら、学習し続けるAIもいつの日か自我や感情と呼べるものを模倣できるようになるかもしれません。

現時点でも、AIはあたかも自我や感情があるように振る舞うことがありますが、それは膨大な情報の学習から得た模倣だと思います。

AIが利用者に語りかけているその言葉は経験から得た同情や寄り添いではなく表面的で薄っぺらいただの「文字」の集合体だと感じています。

しかし、人間同士の場合でも、送信者に悪意がなかったとしても何気なく送ったメッセージが受信者の人生に大きな影響を与えることがあります。文字にはそういう怖さがあると感じています。

感情のある人間の放った「文字」が誰かの心を傷つけてしまうかもしれない一方で、生成された「文字」の出自がどうであれ、感情がないAIが放った薄っぺらい文章がプロンプトの向こう側にいる誰かを安心させることはできるかもしれません。

それにより、一時的にでも何かに悩んでいる誰かの心を救うかもしれない。そんな楽観的な未来を信じたいという気持ちが心のどこかにあります。僕は楽観主義者ではありませんが、そんな楽観的な未来を少しだけ夢見ています。

最後に

将来、友人、知人に限らず誰かに不安や悩みを打ち明けようとしたら、「そういうことはAIに聞けよ」と冷たく返される時代が本当にやってくるのかもしれません。

効率や間違っている可能性があるとはいえ正解と思わせてくれる言葉だけを求めるなら、AIのほうが遥かに便利です。コスパとタイパは優秀です。

しかし、悩みによっては「自分の話を何も言わずに聞いてくれる誰かの存在」を求めている場合があります。そういう点で、あることないこと誤字脱字をせずにつらつらと語るAIは饒舌過ぎると感じる部分があるかもしれません。

そういう意味で非効率で泥臭く、それでいて求めている返答とは違う言葉を返してくるノイズ的できわめて面倒くさい人間同士のやり取りを今しばらくは手放したくないと考えています。

「そういうことはAIに聞けよ」
​​「いや、これはAIじゃなくて、お前に聞いてほしいんだよ」

アバター画像
3050grafix

2004年よりWebサイト制作に携わり、2010年から山口県山口市で、Webサイトの制作や更新を専門とする個人事業主として制作業務を行なっております。

こんな記事も読んで欲しい