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動画配信サービスで「コマンドー」や「バトルランナー」を観ていたら、アルゴリズムに「この視聴者は1980年代の映画が好きらしい」と判断されたのか、「おすすめ」に「ファイナル・カウントダウン」「ロボコップ」が表示されるようになりました。
「意図しない出会い」が好きな僕は、自発的には選びそうにない作品が並ぶ「おすすめ」を眺める傾向にあります。感覚的には「ディグる」に近いかもしれません。
そんなある日、「おすすめ」を眺めていたら、2014年に「ロボコップ」がリメイクされていると知り、どうせなら第1作から観直そうと考えて、1987年の「ロボコップ」から「ロボコップ2」「ロボコップ3」、そして、2014年の「ロボコップ」までを、短期間で鑑賞しました。
ただ、僕はホラー映画、特にスプラッタ系が苦手なのに、あの監督の存在をうっかり忘れていました。
1度観ると忘れるはずがないオランダが生んだ鬼才
1987年の「ロボコップ」を撮ったのは、まさかのあいつでした。そうです、監督をした作品で「女王陛下の戦士」「インビジブル」以外にまともな作品がないとまで言われているオランダが生んだ鬼才、ポール・バーホーベンがそこにいました。
アレックス・マーフィー巡査とアン・ルイス巡査が、警官殺しで指名手配中のマフィア「クラレンス」一味の隠れ家である廃工場に潜入した際に、マーフィー巡査が捕まり、至近距離から一斉射撃を受けて絶命します。
その際に、マーフィー巡査が吹き飛んだ自分の右腕を唖然として掴むという、なかなか直視しにくい描写があります。
ロボコップの開発には新鮮で優秀な警察官の遺体が必要なため、この描写は必要だったとしても、ここまで過激に描く必要があるのかとは感じます。
それこそがポール・バーホーベンが描くゴア表現ということだと思いますが、2008年にイエス・キリストの伝記「Jesus of Nazareth」を出版するぐらいの監督なので、もしかすると、死亡したはずの人間がサイボーグとして復活する様子をイエス・キリストの磔刑と復活になぞらえているのかもしれません。
続編はどうだったのか
「ロボコップ2」の監督は「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」を撮ったアーヴィン・カーシュナーでした。バーホーベンイズムを継承しつつも、スプラッタ表現は落ち着きを取り戻し、「マスター・アンド・コマンダー」の手術の場面でも目を細めて乗り切る僕には助かりました。
物語は全体を通して、「クラレンス」みたいな絶対悪がいるというよりは、麻薬は「ダメ。ゼッタイ」という感じの内容です。
「ロボコップ3」では、これまでの展開が一転して、オムニ社は日本企業「カネミツ・コーポレーション」に買収され、最新鋭アンドロイド「オートモ」が送り込まれます。
ロボコップも左腕にロケットランチャーを取り付けたり、背中にジェットパックを取り付けて、空を飛んだり、劇中全体で社会批判は薄まり、アクション映画としての要素が強くなります。
ただ、最後に解雇されたオムニ社の元CEOに「マーフィー」と話しかけられた際に、ロボコップは「友達はマーフィーと呼ぶ。だが、お前たちはロボコップと呼べ」と返します。
ここまで、ロボコップを連続して観てきた僕は、そのセリフを聞いて、マーフィーは1人の人間からデトロイトを守る概念としてのロボコップになることを受け入れたような気がしました。
旧3作を一気に観たからかもしれませんが、2014年版「ロボコップ」は、旧3作に比べて当時の感覚が現代風にアップデートされたというだけでは説明がつかない異質な印象を受けました。
ただ、2014年の「ロボコップ」を鑑賞中、ずっと、なんとも言えない胸糞悪さを感じていました。
(以降は、ネタバレになるので、引き返すならここが最後のチャンスです)
1980年代の悪趣味なリアリズム
1987年の「ロボコップ」では、街の治安のために、オムニ社の都合で優秀な警察官を犯罪率が高い地域に配属させ、そして、殉職した警察官の遺体を利用しています。
これはこれで、「胸糞悪さ」がありますが、倫理観や尊厳は別にして、マーフィーの遺体を「工業的素材」として捉え直しており、オムニ社の社員の大半もロボコップを尊厳ある人間ではなく、工業製品として扱っています。
これは、当時の1980年代のレーガン大統領が掲げていた経済対策「レーガノミクス」を背景に、
- 利益のためなら犯罪多発地域も見捨てる
- 殉職した警察官は会社の資産
という、清々しいほどの悪辣さに加えて、バーホーベン監督の思想や過剰なゴア表現が作品のなかに宿っていると思います。
そのため、オムニ社の社員の言動やロボコップが生前の記憶に苦しむ様子に何とも言えない思いを感じつつも、ある種の寓話的コメディとして楽しむことができたように感じます。
現代的な倫理の顔をした搾取
2014年の「ロボコップ」の舞台は2028年に設定されています。旧作のオムニ社は、オムニコープ社に名前を変え、ロボット技術で中東などの戦場で軍事用ロボットを運用して巨額の利益を得ています。
軍事用ロボットの中には、旧作では役員会でオムニ社の社員を射殺したり、階段から落ちてジタバタしたり、少女ニコにあっさりとハッキングされたりと、愛嬌を振りまくだけで、兵器として目立った活躍がなかった「ED-209」が、しっかりと軍事用ロボットとして存在感を放っていました。
また、劇中では「ドレイファス法」というアメリカ国内で軍事用ロボットの配備や使用を禁止する法律が存在します。法律と世論の反対も根強いことで、国内市場に参入できないオムニコープ社は、なんとかして「ドレイファス法」を廃案にしようとして躍起になっています。
世論が反対する理由の1つに「心がない機械」であることに目をつけたオムニコープ社は、機械と人間を融合させた「ロボコップ」を製造して、活躍させることで世論を誘導しようと試みます。
そんな時に、爆破に巻き込まれ、瀕死の重傷を負ったマーフィー刑事に白羽の矢を立て、しかも妻のクララから同意を得た上で、表向きは殉職した警察官を助けるための処置を理由にロボコップとして蘇らせます。
製造過程で、ロボコップが犯人を撃つ際に、脳の神経伝達速度では機械の処理速度に追いつけず、また、迷いや恐怖などもあり、判断に数秒の遅れが生じることがありました。そこで、戦闘モードに入ると身体の動きはプログラムが支配して、脳には自分で判断して行動していると錯覚させる機能が追加されます。
つまり、マーフィー刑事は自由意志がなく、ロボコップというシステムに乗った「乗客」ということになりますが、そのことを彼が認識できないという胸糞悪さがあります。
胸糞悪さに拍車をかけるパット・ノヴァック
旧作の劇中では、核戦争ボードゲーム「Nukem」や、燃費の悪さがウリの車「SUX6000」など、悪趣味な架空のCMやニュースが流れています。
2014年の「ロボコップ」では、劇中の架空のCMやニュースはありませんが、「ザ・ノヴァック・エレメント」という架空の番組が挿入されています。
劇中では描かれていませんが、この番組のスポンサーはオムニコープ社提供のインフォマーシャルなのだろうという清々しさと欺瞞の気持ち悪さがあります。
紫色のライトセーバーを振り回していた頃とは比べ物にならないぐらい頭髪がフサフサになったサミュエル・L・ジャクソン演じるパット・ノヴァックは、とにかく画面の向こうから「ドレイファス法」の賛同者に対して「愛国心のないクソ野郎」と強い言葉を投げかけ続けます。
一見すると情報番組のような体裁をしていますが、ドレイファス法の長所短所の比較や検証、複雑な倫理問題は一切語らずに「敵か味方か」「愛国者か売国奴か」という二元論にすり替えられた言葉を浴びせられ続けるため、映画と分かっていても皮肉として笑えない部分があります。
高級スーツを着て快適なスタジオで煽っているだけで、現実で誤認射殺が起きても、ロボットが暴走しても、彼自身の手が汚れることも血を流すことがないという「リスクの非対称性」こそが、映画という枠を超えて、僕に強烈な苛立ちと不快感を残すことになったような気がしています。
そういう意味で、2014年の「ロボコップ」は、最後まで観ても何1つ解決しないまま、状況は改善しないまま終わりを迎えます。
映画の製作側にとっては、公開当時の社会状況への皮肉のつもりかもしれませんが、ロボコップというアクション映画にそんな居心地の悪さを求めていない僕には、なんとなく喉の奥に骨が引っかかる感じの作品でした。
一応の解決は提示されるけども…
旧作のロボコップには、
- 社会の奉仕者であれ
- 無辜の市民を守れ
- 法を遵守せよ
- 【機密】オムニ社社員は逮捕してはならない
という「4つの基本指令」が設定されています。相手がオムニ社の社員の場合、その上司が「お前はクビだ!」と言わない限り、逮捕することも銃を撃つこともできません。
しかし、2014年の「ロボコップ」では、最終的にロボコップはオムニコープ社のCEOを射殺しています。これは、「家族を守りたい」という想いが、プログラムによる制御を超越したと考えることができるかもしれません。
また、旧作では、本来残せたはずの左腕をオムニ社の意向で切り落として全身を機械に置き換えていましたが、2014年版では脳や心臓、肺だけでなく、「生身の右手」が残されていました。その「右手」でCEOを撃ったことに、何かしらの意味があったようにも感じます。
そういう意味で、2014年の「ロボコップ」は、ロボコップが人間に戻る物語と考えることができます。
ただ、本来であれば、「無事に解決した。良かった良かった」となるところですが…
これまでに劇中で底知れぬグロテスクさを感じてきたことと、これからもロボコップとして生きていくには、今後もオムニコープ社やノートン博士からのサポート、莫大な資金が必要なことを考えると、現状として依存と支配から抜け出しておらず、果たしてこれは一件落着なのかと感じる部分はありました。
最後に
最後の最後でこれまでの流れと無関係な余談になりますが、「ロボコップ」を見ている最中に、「ロボコップ」と「チャッピー」にある種の関係性を感じることがありました。
どちらの作品も警察を舞台にしているという共通点はありますが、「ロボコップ」における「ロボコップとED-209」、「チャッピー」における「スカウトとムース」という対比構造があるように感じました。
ロボコップとスカウトでは、サイボーグとロボットという違いはありますが、どちらも人型で「心」を理解し、人間と同じ目線で対話し、精密に容疑者を無力化する「市民社会のための警察」のメタファーとして描かれています。
一方で、ED-209とムースでは、ED-209は完全自動、ムースは人間が遠隔操縦しているという違いはありますが、威圧的な巨体、過剰とも言える重装備で周囲の巻き添え被害を顧みない「軍事・戦争・過剰制圧」のメタファーのように感じます。
突き詰めれば、どちらも旧約聖書に登場した「ダビデとゴリアテ」のメタファーなのかもしれません。そうであっても、ジャンルを問わずに横断して映画を観ていると、こういう発見があり、興味が尽きることがありません。
現在では製作されるかすら怪しくなっている「RoboCop Returns」の監督として、2018年にニール・ブロムカンプ監督が就任していることを考えると、バーホーベン監督ほどの過激表現ではなくても、ブロムカンプ監督には、どことなくバーホーベンイズムを感じるものがあります。
動画配信サービスのアルゴリズムが気まぐれに運んできた「おすすめ」を上から順に観るような鑑賞方法ですが、これからも映画鑑賞を続けていきたいと感じる体験になりました。
記事内に映画、漫画、ゲームなどのネタバレが含まれる可能性があります。



