ADHDの特性により日々、消えては浮かぶ発想の風船が飛んでいかないように、紐を握りしめてブログを書き続けていることで、どうも僕は言葉が持つ意味に強いこだわりがあるようだと気がつきました。
自分でも面倒くさい子供だったんだろうなと感じますが、僕は子供の頃から時間は不可逆であり、全ての命は等しく生まれた瞬間から「死」に向かって進んでいると考えており、今もその考えは変わっていません。
とはいえ、感覚としてそういう考えがあったものの、僕も40代手前まで、そんなことをそこまで真剣に考える機会はありませんでした。
20代や30代の頃は「寝れば治るだろう」ぐらいに考えていました。それが、僕の目の前にアラフィフが見え隠れし始めた頃から少し趣が異なってきました。
僕は確実に死に向かっている
人間も自然の一部である以上、エントロピーの法則に従い、ある年齢を過ぎたあたりから細胞が老化し、身体の機能は低下に向かって行くと思います。
しかし、40代になると、寝ても翌日には治っていなかったり、筋肉痛が数日続くことが増えてきました。また、老眼の入り口に足を踏み入れた頃から、20代の絶好調を「100」とするなら、40歳を過ぎた僕の絶好調は「78」ぐらいではないかと感じることが増えてきました。
「だから、JRPGの世界を救う主人公の年齢設定は16歳とかなんだな!」と妙に納得できる部分もありました。生物学的に考えると、長期的に見て「少しずつ悪くなっている」「順調に死に向かっている」を意識し始めたと言えます。
人生の残り時間を気にするようになった
「漠然とした未来の話をしよう」でも触れましたが、40歳を過ぎたあたりから「あと何回、年が越せるだろう」「あと何回、友人に会えるだろう」と漠然と考えることが増えてきました。
特に出身地の関西から山口県に移住した僕にとって、関西で暮らす親友たちと会えるのは、そんなに多くないかもしれません。
親友たちとは、ほぼ毎日のようにSNSやメッセージアプリでやり取りをしています。そういう意味で関係が切れているわけではありません。
そのため、毎日会っているような錯覚に陥っています。その結果、「会いに行かなきゃ」と考えることが減り、対面で同じ空間でともに時間を過ごすことが限りなく減ったように感じます。
さて、話題の脱線はこれぐらいにして、そろそろ「調子はいかがですか?」の正しい答え方を考察してみたいと思います。
「調子はいかがですか?」と聞かれたら…
友人たちから「最近、調子はどう?」と聞かれたら「ぼちぼち。何とかやっている」と答えると思います。また、何かとお世話になっているかかりつけ医から聞かれたら、最近の僕の体調や体重の変化などを説明すると思います。
ADHDと共に生きる僕でも、これまでの数々の失敗や強化学習によって、その程度の適応能力は身につけています。
しかし、「調子はいかがですか?」と聞かれて「どう答えたらいいんだろう」と悩む職種の方がいます。それが、看護師さんや歯科衛生士さんです。
ADHDの僕は環境の変化を極端に嫌います。そのため、同じ病院に通い続けます。
長い期間、通い続けると「いつまでこの仕事を続けてくれるだろう」「毎年しっかり健康診断を受けているだろうか」と自分の体調よりもお世話になっている先生の健康状態が気になるぐらいです。
しかし、そんな中で、病院の看護師さんと雑談など何気ないことを話すようになります。そんな時に「調子はいかがですか?」と聞かれます。友人でもなく、かかりつけ医でもない。何気ない雑談をするけど、そこにいるのは紛れもなく医療従事者です。
もしかすると、年齢を重ね、身体の衰えを実感するようになったからこそ、医療従事者から聞かれる「調子はいかがですか?」という言葉が、以前よりもリアルに、そして重く響くようになったのかもしれません。
僕は毎回「これは知人として聞いているのか…?はたまた、医療従事者として聞いているのか…?」と、社会的挨拶なのか、医療的質問なのかと悩んでしまい即答できません。
そして、目の前の相手の「あれ?変な質問をしたかな?」という雰囲気を感じながら、時間にして約2秒、僕の脳内では悠久ともいえる感覚のなかであれこれ考えを巡らせた結果、探り探り「老眼も始まりましたし、日に日に元気に悪化しています」と笑顔で答えてみます。
そして、「ん?」という顔をされた数秒後に、「いつも、そんな変なことを考えているんですか」と雑談が続きます。
言葉が持つ意味に強いこだわりがある
僕はこれまでに様々なブログで触れていますが、僕はADHDの特性により、言葉が持つ意味に強いこだわりがある傾向を感じています。
2022年5月に心理検査を受けて、ADHDと診断される以前は、自分自身を「うっかりおじさん」と思っていたこともあるのか、僕は長年、自分自身が「言葉が持つ意味に強いこだわり」を持っていると認識していませんでした。
それが、ブログを書くようになったことで、国語辞典を引いたり、これまで誤用していた単語に気がついたり、延々と表現を調整したり、AIに何度も誤字脱字の確認や文章のねじれの確認を依頼したり、誰が読むとも分からないブログを一生懸命作り上げています。
そんななかで、これまでの自分の「こだわり」を思い返してみると、確かにいくつか思い当たる節があります。
パッと思い出すのが、仕事のメールでは「という」という表現を絶対に使わないとルールを課していた時期が10年以上ありました。そのルールが生まれた際に、どんなきっかけがあったかは思い出せません。
もしかすると、この変なルールを守ることをゲームのように楽しんでいたのかもしれませんが、「というような」「ということ」と書けば簡単に次に進めるような場面でも、「という」を使わずに試行錯誤していました。
それがいまでは、ブログのあちらこちらで「という」が元気に仕事をしています。
これは僕がブログを書くためにAIとやり取りを繰り返すことで、「AIも『という』を頻繁に使っているし表現として問題ないのかもしれない」と表現の1つとして受け入れた結果かもしれません。
凝り固まった「という」への過集中や固執が溶け、僕と「という」の10年以上の冷え切った関係は良い方向に進み始めたようです。
言葉のやり取りは限りなく仮想的かもしれない
言葉が持つ意味へのこだわり、ブログを書き始めたこと、ブログのネタがなくなり自分の内省をテーマにし始めたこと、人間ではないのに人間のように振る舞うAIとのやり取りなど、様々な理由が重なり合い、なんとなく自分なりの答えにたどり着きつつあります。
それは「言葉のやり取りは限りなく仮想的かもしれない」ということです。
「身体を持たないAIが身体的慣用句を使うこと」でも触れましたが、僕自身は自覚できませんが、物事を映像で認識して、映像で記憶しているのかもしれません。
だから、実体を持たないAIが「目から鱗でした」「胸が熱くなりました」「お茶を吹き出しそうになりました」などの慣用句を使うと、何とも言えない違和感があったのだと思います。
もしかすると、日々のアップデートで確実に人間よりも優秀になっていくAIに対して「どうだ!サーバから出られないお前には!胸を熱くできないだろ!」という思いがあったのかもしれません。
しかし、結局のところ、僕も目から鱗は落とせず、胸を熱くすることはできません。きっと、誰かとの会話中に「なるほど!膝を打つ思いだ!」と思っても、実際に自分の膝を打つような動作はしないはずです。
しかし、言葉が気持ちを伝えるために情報を圧縮した仮想的なものであるなら、インターネットで誰かが発した暴言は羽根のように軽く受け流せるはずです。
それなのに、僕らは深く傷つきます。僕自身もメールやメッセージアプリの文面にイラッとすることがあります。つまり、本来は重さがないはずの「言葉」に重みを感じているからだと考えています。
言葉の重さは何処からやってくるのか
僕は「身体を持たないAIが身体的慣用句を使うこと」を書いた時点では、有機的な人間が発する言葉には「重さ」を感じており、機械的なAIが発する言葉には「重さ」を感じないと考えていました。
少し話が逸れますが、僕はADHDのため「〜するべき」と特定の考えに固執する恐れがあるため、Geminiには「私が特定の考えに固執した場合は反証してください」と保存してあります。
そして、うちのGeminiは毎回のやり取りで「ヒロさんからの指示に従い、別の視点からの意見としての反証を試みます」と反証してくれますが、「毎回反証しやがって!うるさいな!」と感じる僕がいます。
しかし、人間が発した言葉でも、AIが発した言葉でも感情が揺さぶられるのであれば、言葉の重みは言葉を受け取った方が、瞬時に圧縮された情報を解凍し、分析する際に無意識に付加しているような気がします。
それは、きっと「同情してくれている気がする」「この言い方には裏があるかもしれない」という、これまでの人生経験で得た感情や痛みから漏れ出た情報の重みのような気がします。
僕がAIが発した言葉をどこか斜に構えて眺めているのは、AIの言葉が経験ではなく学習により、しかも確率論的に紡がれたものであるという認識が、僕の感情のデータベースとリンクしないからなのかもしれません。
最後に
少しITっぽい話になりますが、通信先が正常に機能しているかを確認するためのパケットを送り、送り先からの反応を確認する「ping」というコマンドがあります。「ping」を打って反応があれば、Webサーバは動作しており、反応がなければ止まっていると判断します。
本来、会話というのは「おはよう」と聞いて「おはよう」と返ってくるのか、「どんな感じ?」と聞いて「ぼちぼち」と返ってくるのかを確認しているだけなのかもしれません。
看護師さんに「調子はいかがですか?」と聞かれたら、「良い感じです」と返すのが、きっと正しいのでしょう。しかし、僕の脳内にインストールされた「ADHD」というプラグインが余計な処理をして、僕に「老眼も始まりましたし、日に日に元気に悪化しています」と打ち返させます。
そして、僕からの返信を受け取った看護師さんは情報を解凍した際に、僕に対して「変な人」という情報を付加しているはずです。
きっとこれからも、こんな面倒くさいことを考えてしまうのだと思います。








