「アリとキリギリス」とは、古代ギリシアのアイソポス(イソップ)が描いたとされる寓話で、イソップ物語の1つとして有名です。
作家のアイソポスは、今から2600年以上前の紀元前620年頃に生まれたと考えられています。
どんな作品でも、長い歴史のなかで時代や環境によって物語の内容が変遷する性質を持ちますが、「アリとキリギリス」もその例に漏れず、作品によっては、私たちが知っているキリギリスではなく、蝉やセンチコガネ、コオロギなどの場合があります。
物語は時代や環境で変化する
元々は「アリとキリギリス」ではなく、「アリとセミ」だったようです。ただ、ヨーロッパでセミは南フランス、スペイン、イタリア、ギリシャなどの地中海沿岸にしか生息していません。
古代ギリシアで誕生した「アリとセミ」が、ドイツやイギリスに伝わった際に、内容がうまく伝わらないと判断されたのか、セミがセンチコガネやキリギリスに変化したのではないかと考えられます。
また、セミは英語では「Cicada」と書きますが、これは、セミが鳴く様子を「シャカシャカ」と表現したラテン語の擬音語(オノマトペ)に由来するとされています。
物語に登場する昆虫や結末が変化しても、常にアリの存在は一貫しているようですが、実際に彼らは南極大陸やグリーンランド、一部の島国を除く地球上のほとんどの陸上に生息すると言われています。
人間ははるか古代から、昆虫や小動物の死骸を数時間から数日で跡形もなく解体する様子に、真面目や勤勉、あるいはある種の狂気性を感じ取っているのかもしれません。
少し話が逸れますが、1954年にアメリカで公開された「黒い絨毯」では、そんなアリの狂気性が描かれています。映画の前半は古き良き美男美女のキャッキャッした恋愛模様が描かれますが、後半、作品の様相が一変します。
映画には、グンタイアリがモデルになったと考えられる架空の人食い蟻「マラブンタ」が登場し、アリの集団移動によって、一瞬で動植物が食い尽くされるシーンが描かれています。
僕はホラー映画は苦手で、どちらかというとアクションがメインの「バイオハザード」や「ハムナプトラ」すらも観れませんが、なぜかこの映画が大好きです。
さて、話を戻しまして、現在、「アリとキリギリス」として一般に知られている物語は、1934年にディズニー映画として公開された「アリとキリギリス」の影響を受けていると考えられています。
そこで、このブログでも、皆さんによく知られた「アリとキリギリス」の内容で話を進めることにします。
「アリとキリギリス」のあらすじ
「アリとキリギリス」のあらすじは基本的に次のような感じになります。
- 夏の間、アリたちは冬に備えて食料を集めています
- そんなアリたちを横目に、キリギリスは、毎日、ヴァイオリンを弾いて過ごしています
- 冬になり、キリギリスは食料に困り、アリたちに食料を分けてほしいと相談します
- アリたちはキリギリスに食料を分け与えます
- キリギリスはこれまでの自分の行動を反省して、お礼にヴァイオリンの演奏を披露します
この物語には、将来に向けてしっかりと準備をする大切さや、怠けていると苦しい結果を招くという戒めなど、「備えあれば憂いなし」や、真面目に働くことの重要性を説いているように思います。
しかし、僕も年齢を重ねるにつれ、また、個人事業主として「真面目に不真面目に生きる」を実践してきたことで、「アリとキリギリス」に子供の頃に感じていたものとは違う感覚を持っています。
アリの幸せとキリギリスの幸せ
物語の中のアリは、将来への備えと現実的な安心感の象徴として描かれていると考えられます。アリの行動は堅実な一方で、予定調和になりがちな側面があります。
その一方でキリギリスは、「今」を楽しもうとする情熱や自由があり、一見、無計画に見えても、今この瞬間を生きるエネルギーに溢れているようにも感じます。
しかし、物語ではどうしてもアリが「善」で、キリギリスが「悪」のように描かれているように感じます。
そしてなにより、僕が40歳を過ぎて思うのは、若い頃は今よりは「キリギリスのような行動や考え方」ができたのに、年齢を重ねるにつれて「アリのような行動や考え方」に変わってきたようにも感じています。
個人事業主という選択肢
関西から山口県に移住した頃は、自宅の近隣にデザイン事務所の求人はありませんでした。山口市の県庁周辺や下関市などの山口県内でも比較的人口が密集した地域なら、そういう求人もあったかもしれません。
しかし、「沖家室シーサイドキャンプ場に行ってきました」でも触れましたが、幼少期から公共交通機関の利用を前提に生きてきた僕にとって、毎日出社のために車を運転することは何としても避けたいという強い思いがありました。
その結果、妻からの後押しもあり、Webサイトの制作を専門にする個人事業主になりましたが、葛藤がなかったわけではありません。
会社員には労働基準法や雇用保険など、労働者を守る仕組みや法律があり、何より毎月、労働に応じて固定給が支払われます。
今でこそ、2024年11月に施行された「特定受託事業者取引適正化法(フリーランス新法)」がありますが、基本的に個人事業主は労働基準法の枠外で生きており、何より固定給がありません。
個人事業主になり制作業務で備品購入する際に、上司への相談や稟議などは不要になりましたが、自分の健康や労働時間、入出金の管理など、ありとあらゆるものが自己責任になりました。
そもそも、毎月の固定給がないというのはとてつもない不安がよぎります。「まあ何とかなるだろう」と気軽に、個人事業主になることを選択できるわけではありません。
しかし、ギリギリ20代だった僕の中にかろうじて残っていた「キリギリス」的な要素が友人も知人もいない見知らぬ土地での一見、無計画にも見える個人事業主への道を後押ししたのかもしれません。
念のため、現時点での結果をお伝えしておくと、見知らぬ土地での個人事業主への選択は、全くもって無謀でした。
固定給と引き換えにした「自由」があったとしても、やっぱり毎月の固定給は欲しいです。そして、半ば強制的にやってくる1年に1回の健康診断は本当に大切です。誰かに強制されなきゃ、健康診断なんて誰も受けに行かないものですから…
とはいえ、「僕が家族を守っていくんだ!」という大義名分だけで、これまでやってきた自分が好きだった仕事を離れ、全く異なる仕事に就けたのかというと、ADHDと共に生きる僕にとってはかなり難しい問題だったと感じています。
全く異なる仕事に就いたとしても、きっと「この仕事は僕には向いていない。僕に向いているもっと良い職場があるはずだ」と青い鳥症候群によって転職を繰り返して、家族を守るどころか、すでに一家離散していたかもしれません。
そういう意味でも、当時の妻からの後押しと、ADHDの衝動性と僕の中にかろうじて残っていた「キリギリス的な要素」によって選んだ個人事業主への道は成功とは言えずとも、僕には向いていたのかもしれません。
アリの計画性や勤勉さは何が起きるか分からない日々の生活において大切だと感じるものの、キリギリスが「怠け者」だったかというと、そういうわけでもないと感じています。
キリギリスは怠けていたのか
「アリとキリギリス」は基本的にアリの視点で物語が進んでいるように感じています。秋から冬に備えて、計画的に準備を始めるアリにとって、キリギリスは準備を怠っているように見えたかもしれません。
しかし、キリギリスもまた、準備を怠って楽器を弾いていたのではなく、演奏家としての練習に明け暮れていたのかもしれません。キリギリスの職業が演奏家だとするなら、きっと個人事業主だろうと思います。
個人事業主は、どんなに計画的に準備をしていても、どんなにリスク分散を講じていても、仕事の相談や依頼が激減するタイミングがあります。そんな時は友人や知人に声をかけ、貯蓄を切り崩してどうにかこうにかやり繰りしようとします。
それでも無理なときはやってきます。
僕の場合は、新型コロナウイルス感染症に伴うコロナ禍や、何とか乗り切ったと思った矢先のAIの登場、また、ウクライナやイランなど国際情勢の不安定化による半導体の不足やPCの価格高騰など、2020年から一瞬たりとも気が抜けない状況が続いています。
きっと、キリギリスもそんな状況によって仕事が減ってしまったのではないかと、僕が個人事業主ゆえについ、キリギリスが抱えていたかもしれない背景を勝手に妄想して、ついついキリギリスに肩入れしがちになります。
「アリが幸せ」「キリギリスが幸せ」という話ではなく、今の僕は、「キリギリスは決して怠け者ではなく、フリーランスの演奏家だったのではないか」という独自の解釈のもと、キリギリスとして生きているつもりですが、年齢を重ねることで、アリとキリギリスを行ったり来たりしながら過ごしているのかもしれません。
「アリとキリギリス」が描かれた時代
とはいえ、原作者のアイソポスが暮らしていた古代ギリシャはアルカイック期と呼ばれる時期を経て、ペルシア戦争の勃発により、古典期に移行するタイミングでもあり、戦争や人口増加による農地不足など様々な問題があったのかもしれません。
そんな日々の中で、哲学や文化的活動に勤しむよりも、アリのようにひたすら食料を備蓄してきたるべき時に備えることこそが重要と考えてもおかしくはありません。
物語の中には、きっとそんな古代ギリシャの歴史的な背景が見え隠れしているような気がします。
最後に
そして、傍目にはリスクヘッジしているように見えるアリたちも、現代風に考えると、女王アリからのトップダウンの指示により、ひたすら食料を集め続けるアリたちの中にはストレスを抱えたり、過労死する危険性があるかもしれません。
元々は「アリとキリギリス」ではなく、「アリとセミ」だったかもしれないように、「アリとキリギリス」の中で描かれた価値観もまた時代とともに変化します。
さらには、受け手(読み手)の体験や感覚の変化によって、受け止め方が変化します。
古代ローマの歴史家、クルティウス・ルフスが残した「歴史は繰り返す」という言葉を信じるなら、いま僕らが暮らすこの世界は、古代ギリシャの古典期のように自治や民主政、芸術などが成熟する一方で、ペルシア戦争やペロポネソス戦争などの争いが激化した、過去の歴史をなぞるように進んでいるのかもしれません。
「理由があるようなないような」で、僕は受け手の身勝手な解釈が苦手(青いカーテン問題)と触れておきながら、当時のアイソポスの思いを無視して、僕もまた時代の影響や、人類の倫理観の変化を楽しんでいるのかもしれません。






