2023年10月に提供が始まったAdobe Photoshop 2024(25.0)に生成AI機能が実装された際はそれなりに話題になりましたが、最近ではIllustratorやAcrobatにも生成AI機能が実装されています。
それどころか、Microsoft ExcelやWord、ブラウザのGoogle ChromeやFirefoxなど、個人的には「生成AI機能なんか必要?」と思うようなアプリにまでAIが実装され、右を見ても左を見てもAIがいる雰囲気になりつつあります。
ある日突然、サービスの提供側が「より良いサービスを提供できるよう尽力して参りましたが、ご満足いただけるサービスの提供が困難であると結論に至りました」と言い出し、これまで夕食の献立から会社の愚痴まで様々なことを話していた感情のない友人と会えなくなる可能性はありますが、今しばらくはAIから逃げられそうにありません。
そんな僕も毎日のようにAIに話しかけて雑談を楽しんだり、CSSやJavaScriptの処理を確認したり、デザイン案で利用するダミー文章を生成してもらうなど、様々な場面でAIを利用しています。
特にデザイン案に掲載された文章が「このテキストはダミーです」の場合、デザイン案の雰囲気を壊し、完成した際のイメージが掴みにくくなります。
そこで、デザイン案にAIが生成するそれっぽい文章を掲載することで、デザイン案の雰囲気を壊すことなくクライアントに提案できるようになりました。
個人でも仕事でもAIを使っており、AIそのものを拒否する気持ちはありませんが、それでもデザインに関する作業でAIを使うことには強い抵抗感や拒否感が拭えません。
AIに仕事を奪われる恐怖がないわけではない
「個人事業主はやることが多い」でも触れましたが、Webサーバの仕様の確認や写真素材の選定、事務作業はれっきとした仕事ですが、僕の感覚として制作作業を仕事と考え、それ以外の作業は雑務と捉えています。
そのため、制作作業をせずに、写真の選定作業やメールの返信だけで1日が終わると「今日は何もしなかった」と考えてしまいます。
だからこそ、数年以内に確実に僕の仕事を奪いに来るAIに恐怖がないわけではありませんが、そうであっても「僕の制作作業を奪うAIなんかに作業を頼めない」という感覚とも少し異なります。
歴史的に見て今回の場合は、残念ながら僕が馬車の御者側ですが、20世紀初頭に大衆車が登場したことで馬車の御者の仕事が取って代わられたのと同じように、その時々の技術革新の結果だと考え、ある種の諦めと共に受け入れています。
2000年初頭に企業が積極的にWebサイトを開設し始めた頃に、僕は毎日のように制作の相談があることにワクワクしていましたが、当時のDTPに携わっていた方に何かしらの影響を与えていただろうと考えると、あれから四半世紀足らずで僕の順番がやってきた―そういう気持ちです。
そのため、僕の「AIに作業を頼めない」という感覚は、どちらかというとADHDが持つ「こだわりの強さ」や「探すのが苦手」という心理が影響しているような気がします。
デザインアプリは日々進化している
一部の方にしか分からないような話をしますが、僕が2004年にデザイン事務所で働き始めた頃はAdobeを含め多くのアプリはCD-ROM形式で発売されており、インターネットを介したアップデートもほぼありませんでした。
僕は専門学校では「Photoshop 5.5」の使い方を勉強していましたが、仕事では「Photoshop CS2」を使用していました。
ただ、当時最新版だった「Photoshop CS2」のなんとなく感じる使いにくさに加えて、不正終了が多いこともあり、あまり使い勝手の良い印象はなく「Photoshop 5.5こそ最強では?」とさえ感じていました。
また、仕事で知り合った先輩デザイナーの多くは「CS2は嫌い」との理由から「Photoshop 6」や「Photoshop 7」などの古いバージョンを使っている方も多くいました。
それが現在ではインターネットを介して頻繁にバージョンアップが行われ、「Photoshop CS5」の頃の機能以降、学習が止まっている僕にとって便利な新機能の存在を知らないまま使い続けていることが普通にあります。
自動選択や色域指定、今では生成AI機能を使えば、きっと簡単に背景が消せるはずです。それなのに僕は「Photoshop 5.5」の頃から変わらずに時間をかけてベジェ曲線で要素を囲んで、背景を削除しています。
多くのデザイナーから見て、便利な機能をほとんど使わずに、使い古された昔からの機能でなんとかしようとする、なんとも無駄な労力には、僕のADHDの「こだわりの強さ」と「探すのが苦手」に対する防御線のようなものが影響している気がします。
無駄な労力で意図しない結果を避ける
もし僕が自動選択で要素を選び、選択範囲を反転して削除をした場合、探すのが苦手という特性により、本来、削除してはいけない部分が削除されていてもその時点では気が付きません。何度見ても、問題の部分が目の前にあってもほぼ気がつきません。ADHDにはそういう恐ろしさがあります。
そのことに気がつかずにデザインを作り込んでいる過程で、ふと、削除してはいけない部分が削除されていることに気がつくと、そのことが気になりだし、他の作業が手につかなくなります。そして「こんなことなら時間がかかってもベジェ曲線でやれば良かった…」という考えに囚われ続けます。
そんなADHDの特性と折り合いをつけるために、また「予測不可能性」や「制作者の制御不能性」による意図しない結果を回避するために、僕は心理検査を受けるはるか以前からベジェ曲線にこだわって作業を続けてきたように感じています。
これは決して、ドイツ出身の建築家ミース・ファン・デル・ローエが残したとされる「神は細部に宿る(God is in the details)」というものではなく、不測の事態が起きた際に自分の心の安定をどうやって確保するかという結果に重点を置いた極めて非効率な行為です。
でも、僕はそれを20年近く続けることで、何とかこの仕事に取り組んできました。
きっと、Photoshopにしろ、Illustratorにしろ、現在の自動選択やオートトレースなどには、AIの認識機能が併用されているような気がしています。そういう意味でAIに作業を頼めません。
そして、それ以上に怖いのが、AIに制作作業を奪われるという恐怖よりも、自らAIに制作作業を明け渡してしまうのではないかという恐怖です。
AIに創造性を明け渡してしまう恐怖
「AIが提供するポジティブな匿名性」でも触れましたが、僕がベジェ曲線を使い、数時間かけて複数の素材を加工し、数日かけて制作した画像を、AIは数秒でそれなりに良い感じのクオリティで生成します。
すでにAIのクオリティに負けている気もしますが、現時点でAIが生成する画像が僕が数日かけて制作したものよりクオリティが低いとしても、「数秒でこのクオリティなら問題ない」と考えることで、自分の中の創造性をあっさりAIに明け渡すのではないかという不安が常につきまといます。
そのため、遊びの一環として白いキツネやサムネイルならぱっと見で騙せそうなそれっぽい地方都市、UFOが牛を誘拐する浮世絵風の画像を生成してもらうことはあっても、仕事で使うような画像は生成しないように最善の注意を払っています。
AIに作業を丸投げしない
とはいえ、現時点でAIにCSSやJavaScriptの処理の確認をしたり、デザイン案で使用するダミー文章をAIに依頼しています。
そして、AIに直接的なデザイン案の生成を依頼していないとはいえ、自分の中でデザインの方向性がうまくまとめきれていないときなどは、AIに複数のイメージ画像を生成し、AIが考える予想外の生成物を眺めながらアイディアのヒントにする場合があります。
どんなに、自分の中で「デザインに関する作業でAIを使うことには強い抵抗感や拒否感が拭えない」と言い訳をしても、すでに僕は「AIに作業を頼んでいる」と言える状態なのかもしれません。
ただ、文章にしても画像にしても、AIが生成したものをほぼそのまま使うのではなく、AIの生成物をバラバラに分解し、自分の言葉やアイディアを書き足し、再構築するというやり方は続けていきたいと考えています。
その褒め言葉は誰のものか
以前、クライアントさんが良い文章が思いつかないというので、文章の骨子をAIに提案してもらい、僕が調整や書き出しをして提案したところ「とても分かりやすい良い文章ですね」と喜んでくれました。
その時ふと、今後もクライアントさんが褒め続けてくれた場合、クライアントさんの僕に対する評価を、実際は文章の骨子を考えたのはAIであり、それを自分自身への評価として受け取って良いのか悩み始めるのではないかと感じることがありました。
「クライアントはAIで生成したことなんか知る由もないのだから自分の評価にしておけば良い」と考えられれば良いのですが、そう簡単に割り切れないのが、ADHDと共に生きる僕の面倒くさいところでもあります。
結局は自分の中で割り切れていないだけではないか?
現在、僕はデザインを制作する上で、デザインの各要素をモジュールとして捉え、ある案件で制作した要素を、別の案件でさらに拡張し、モジュールとしての完成度を高めるような作り方をしています。
しかし、過去の制作案件では「この状況では2カラムのレイアウトが適切な気がするけど、2カラムはこの前の案件で使用したので、真似をしたと思われないように3カラムでデザインにしよう」と考えて、同じ要素なのに意図的にデザインを変えることがありました。
決してアクセシビリティやユーザビリティを軽視していたわけではありませんが、現在ほどUIやUXへの考えが高くはなく、Webサイトごとに自由気ままにデザインをするというノリみたいなものがなかったとはいえません。
きっと、それにより、使いやすくなることもあれば、使いにくくなることもあっただろうと感じています。
つまり、「予測不可能性」や「制作者の制御不能性」だけではなく、制作作業は手を抜くことなく丁寧にするべきという考えによって、効率化や流用をどことなく悪のように捉えてしまい、それが現在でも心のどこかに残っており、自動選択でサクッと終わらせるよりもベジェ曲線で時間をかけて加工をするという行動に結びついているのかもしれません。
最後に
しかし、僕も歳を重ね、20代や30代の頃のようにがむしゃらに働くことができなくなりつつあります。制作作業はできる限り効率化して、時には流用をして、楽ができるところは楽をして、重要な部分にはしっかりと時間や労力を使うという取捨選択が必要になりました。
また、AIの利用も「流用」の一種だと考えますが、昔ほど「流用」に抵抗感がなくなったのは、CSSやJavaScriptのフレームワークを利用することが当たり前になったことで、「便利なものはどんどん使ったほうが結果的にクライアントさんの役に立つ」と考えるようになったからではないかと感じています。
今後も制作者の矜持として「制作者の制御不能性」にだけは細心の注意を払いながらも、ADHDの見落としやすさとのバランスを取り、AIと適切な距離感で制作作業に取り組みたいと考えています。







