2024年8月に「子供たちがスマートフォンを使い始めました」を書いて以降、ネタ探しの大変さやネタ切れの苦痛を感じながらも、なんとかブログの更新を続けてきました。

記憶の外部化としてのブログ」でも書きましたが、僕はブログを書き始める前から自己言及のパラドックスのような疑問や日々の気づきなどを、断片的な思考の記憶として140文字程度にまとめてメモアプリに書き溜めていましたが、これがこれまでのブログの源泉になっていました。

最近、メモに書き残さないことが増えてきたと感じています。そこで、その理由を自分なりに考えてみることにしました。

メモを残す目的

僕は2022年に心理検査を受けて、ADHDの可能性が高いと診断されましたが、それ以前から「みんなが覚えていられるようなことを簡単に忘れてしまう」という自覚があり、やらなきゃいけない作業や思いついたことは可能な限りメモに残すように意識してきました。

ただ、咄嗟に手近にある紙にメモを書いてしまうことが多かったのですが、ADHDのためどこに書いたか覚えておらず、メモをなくしてしまうことも頻繁にありました。

そこで、現在ではガラケー(ガラパゴス携帯)とも呼ばれる携帯電話(フィーチャーフォン)を持つようになってからはメールの下書きを使ってメモを書き溜めていました。

また、当時の携帯電話とPCはデータの同期ができず、PCでは「Google Notebook」「Google Docs」などを利用し、携帯電話からスマートフォンに機種変更したタイミングで、PCでも確認できるようにGmailの下書きに書き溜めていました。

現在は手書き用の小さな手帳を常に持ち歩き、PCとスマートフォンでは「Google Keep」「Google Docs」を利用しています。

僕にとってのメモ

僕が書き溜めていたメモは、ふと脳内に浮かんだ疑問や日々の出来事などを断片的な思考の記憶として残しているものです。また、メモであると同時にX(Twitter)にポストできるようにできるだけ140文字以内でまとめるようにしていました。

メモ自体は誰かに見せようと意識したものではありませんが、Xにポストをすることで丁寧な表現や誤字脱字の防止、また140文字以内という制約によって自分が言いたいことをいかに集約するかを楽しんでいたように感じています。

メモを書き残さなくなった理由

ブログを書き始めてからメモを書き残す頻度が減ったと実感しており、メモが浮かばなくなった要因がブログにあることは確実です。

そこで、その要因を探ってみたいと思います。

思考プロセスの変化

先にも述べましたが、メモはX(Twitter)にポストすることを想定して、第三者が読んで誤解を抱くような表現や差別的な表現を避け、また「てにをは」にも注意をしていました。

それでも、内容によってはSNSに投稿しなければ良いという点で、メモ自体は思いついたことをフィルタリングされずに、脳内から直接出力されるようなものでした。

僕が書くブログは、第三者の目に触れることを前提に、断片的に残されたメモを整理し、構造化してまとめられた文章の集合体だと感じています。

ただただ書き殴ったメモとは異なり、ブログになるように整理し、構造化するのは、自分が思っていた以上に脳のリソースを消費しているのかもしれません。

断片的な思考の記憶が枯渇している

メモを残すこととは異なり、ブログとしてまとめるにはブログの内容に合ったメモを選び出し、かつ大量のメモを消費することになります。

これまでは、未加工の状態だった断片的なメモが大量にありましたが、ブログを書くために消費されたことで、メモの消費に対して、生産のスピードが追いつかなくなり「考えが思いつかなくなった」と感じて、メモを書き残す量が減っていると感じているのもしれません。

ブログを書くことで欲求が抑えられた

メモを書き残すには「文章を書きたい」「誰かに見せたい」という2つの欲求があったように感じています。

ブログを書くことで自己言及のパラドックスのような疑問や日々の気づきを言語化し始めたことで「言語化したい」「忘れないように記録しておきたい」という根本的な欲求が満たされている、または代替えされている可能性が考えられます。

また、建前として「メモを誰かに見せるつもりはない」と考えていても、本音ではメモを残す以上、多少なりとも誰かに見せたいという感情がなかったとは言い切れません。それが、SNSへの投稿につながっていたようにも感じています。

しかし、SNSはフロー型コンテンツと呼ばれ、投稿した内容は数秒で流れていってしまう性質があります。ストック型コンテンツであるブログとして残すことで「今は誰にも読まれなくていつの日か検索サイトから読みに来てくれるかもしれない」と考えるようになり、SNSに投稿するためにメモを書くという欲求が抑制されているのかもしれません。

ただ、この状態は周囲から見るとデザインの制作業務ではよくあるスランプに陥っている状態に見えているかもしれません。

インプットを欲している

僕はADHDの影響なのか他人にあまり興味がなく、またある種のこだわりから、SNSでは自分の日常生活とは無関係な方をフォローすることはほとんどありませんでした。

しかし、最近「様々なアカウントをフォローすれば、これまで知らなかったことが知れるかもしれない」と考えることがあります。また、多種多様なアカウントをフォローすることで、知らないうちに[自分を取り巻くフィルターバブルに変化を与えられる]()のではないかとの思いもあります。

今まで考えることがなかったことを考え出したという点で脳が「インプットを欲した状態」になっていると感じています。

また、僕は在宅の個人事業主で、日常的に電話やオンラインミーティングで誰かと会話しているとはしても、家族以外と会わずに過ごすことも多く、自分では意識していないものの長期的に見て「緩慢な孤独」の状態に陥っているのかもしれません。

様々なアカウントをフォローするという発想は、緩やかであっても新たな繋がりや、これまで知らなかったコミュニティとの接点を欲しているようにも感じています。今後、フォロー数を増やすかは別にして、これは僕にとってポジティブな変化だと捉えています。

メモにはサクッと書ける爽快感があった

ブログは第三者が読むことを前提に構成や展開を考えて書くという面白さがあるものの、書く作業にはある種の疲労感が伴います。それに比べて、パッと思いついたことをメモとして残すことは、センシティブな表現は注意しますが、フィルタリングを介さない脳からの直接的な出力に近く、ある種の爽快感を感じていました。

今でも毎日のように何かを考えて、何かを感じているはずです。そのため以前のように考えていることをメモに残して爽快感を味わいたいのに、それができないことにもどかしさのようなものを感じています。

ただ、こればかりは時間が解決してくれるだろうと信じて待つしかありませんが…

最後に

何となくですが、メモのアイディアが浮かぶ時はブログのネタ探しに苦しみ、ブログのアイディアが浮かぶ時はメモが書けないことへのもどかしさを感じているのではないかと考えています。

そうであるならば、今は何をしていなくてもどんどんブログのネタが思い浮かぶ時期だと受け止めて、ブログをできるだけ書き溜めて、ブログのネタ探しで苦しむ時期に向けての準備と捉えた方が良いようにも感じています。

産みの苦しみなんか感じることなく、ものの数秒で文書や画像を生成するAIを横目に僕は、デザインにしてもブログにしても、産みの苦しみからは逃れられない日々を過ごしていくしかないようです。

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2004年よりWebサイト制作に携わり、2010年から山口県山口市で、Webサイトの制作や更新を専門とする個人事業主として制作業務を行なっております。

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