能動的とは「自ら進んで行動し、物事に取り組む様子」を意味します。能動的の対義語になる受動的とは「自ら進んで行動せず、周囲や外部からの働きかけによって物事に取り組む様子」を意味します。

僕が子供の頃は、多くの同級生は同じテレビ番組を見て、同じ雑誌を読んでいたような気がします。そのため、テレビ番組や雑誌で紹介されている映画を観たり、ゲームで遊ぶ事が多かったように感じています。

現在は、様々なWebサービスの登場により、テレビ、動画配信、雑誌、電子書籍、Webメディアなど、情報の入手方法に変化が生まれ、その結果、興味や趣味の細分化が進み、「みんなが知っている」という共通の話題が減ったようにも感じています。

共通の話題に入れなかった子供時代

ファミコンソフトの「ドラゴンクエスト3(ドラクエ3)」が発売されたのは1988年でした。当時、小学生だった僕は伝家の宝刀「友達もみんな、ドラクエで遊んでいる」を使い、両親にドラクエ3を買ってもらおうとあの手この手を尽くしていました。

そんなある日、ついに両親が「そこまで言うなら買ってあげよう」という雰囲気になり、両親の気持ちが変わらないうちに大急ぎでおもちゃ屋さんに向かいました。

そして、おもちゃ屋の店員さんに欲しいソフト名を伝えようとしたところで、あろうことか父親が店員さんに「このゲームは小学生には難しいですか?」と聞いてしまったのです。店員さんは良かれと「小学生低学年には少し難しいかもしれません。似たようなゲームなら桃太郎伝説がお勧めです」と答えてしまいました。

その結果、僕はドラクエ3を買ってもらえず、桃太郎伝説で遊ぶことになりました。僕にとっての「そして、伝説へ…」は、「そして、桃太郎伝説へ…」になりました。

僕は店員さんを微塵も恨んではいません。しかし、五島勉氏が執筆した「ノストラダムスの大予言」が1999年当時の小学生の心に何かを残したように、店員さんの何気ない一言は40年近く経った今でも僕の心の中に何かを残したままです。

桃太郎伝説が決してダメと言うわけではなく、本当に素晴らしいRPGゲームでした。何度も確認をしてしっかりメモしたはずの天の声がうまく反応せず、閻魔大王に挑むことを何度も諦めた苦い経験から、1998年に発売されたプレイステーション版の桃太郎伝説を購入し、何十時間も遊びました。繰り返しになりますが、桃太郎伝説は本当に素晴らしいゲームです。

でも、小学生だった僕はドラクエ3で遊びたかったのです。クラスの大半の男子生徒がドラクエ3で遊び、「どこまで進んだ?ジパングまで行った?バラモスは?」と共通の話題で盛り上がっている中、桃太郎伝説で遊んでいる僕は話題の中に入ることができませんでした。

そして、本題へ…

今回のブログの本題は僕がドラクエ3で遊べなかった話ではなく、自分の観たいもの、読みたいものが自由(能動的)に選べるようになったはずなのに、何を選べば良いのか分からないという話です。

僕が子供の頃は、インターネットがなく、情報の多くはテレビ番組や雑誌からでした。観るテレビ番組や読む雑誌は能動的に選んでいたはずですが、情報の多くはテレビ番組や雑誌から受動的に受け取っていたような気がします。

録画機能などを利用すればある程度の調整はできますが、本来、テレビ番組は放映時間が決まっており、視聴者がテレビ番組に合わせて行動することを当たり前と考え、そのことに何の疑問も感じていませんでした。

しかし、インターネットの登場により、視聴者のタイミングで観ることができる「オンデマンド(On demand)」という概念が生まれました。

そして、今では映画に限らずテレビ番組を含めて、動画配信サービスの登場により自分のタイミングで好きな作品が観られる環境が整っています。

受動的はダメなのか

一般的に受動的とは自ら行動できない「受け身」の状態と捉えられ、日常生活ではポジティブな印象は受けないような気がします。ただ、「受動的はダメなのか」というとそんな事は決してないと考えています。

僕が学生の頃は、毎月複数の映画雑誌を購入し、様々な映画評論家の意見を読み、お小遣いやバイト代をやりくりして様々な映画を観に行っていました。様々な意見を読み「この映画を観に行こう」と判断する場合もあれば、「この評論家が勧めるんだから面白いはずだ」と判断するときもありました。

能動的であれ、受動的であれ、「どんな映画が面白いんだろう。何を観ればいいんだろう」と手探りの状況では、雑誌の情報を受動的に受け取ることで、映画を観に行くという行動につなげることができていたように感じています。

思わぬ出会いがある

今でこそ民間放送で毎週映画を放映するテレビ番組はめっきり減りましたが、僕が20代の頃までは深夜まで含めると、毎日どこかのチャンネルで映画が放映されていました。

現在では、動画配信サービスや音楽配信サービスでは、利用者の好みに合わせた作品を「おすすめ」してくれますが、観たい映画ではなく、テレビから流れてくる映画を何気なく観ることで、名作との思わぬ出会いがありました。

僕は何気なく観ていたテレビから流れてきたアレックス・プロヤス監督の「ダークシティ」と出会い、僕の中の何かに響き、その後、デヴィッド・フィンチャー監督の「ゲーム」やジョセフ・ラスナック監督の「13F」、アンドリュー・ニコル監督の「ガタカ」などを好んで観るようになりました。

共通の話題を探り合う時代になった

僕の学生時代は友人たちとどんな映画を観るのか、どんなゲームで遊ぶのかは共通の会話のネタの1つとしてありましたが、おじさんになると共通の話題はもっぱら揚げ物が食べられなくなった、小さい文字が見えなくなった、健康診断に引っかかったなど、体調や健康に関することばかりです。

また、僕らが暮らす社会が「みんなと同じ」という考えから個人の意志や行動を尊重しようと変化をしたことや、インターネットを介した様々なサービスの登場によって、周囲に合わせることなく、自分自身のタイミングで趣味を楽しめるようになりました。

それにより、僕の興味があることに友人たちも興味があるのか分かりにくくなり、共通の話題として話しかけにくい雰囲気が生まれ、結果として、体調や健康のことを話題にしがちという側面はあるように感じています。

とはいえ、僕は学生時代から友人たちと時間を調整する手間を面倒と感じる部分があり、映画を観に行くにしても、旅行に行くにしても、ライブに行くにしても1人で楽しんでいました。当時は「お一人様」という概念はまだなく、「寂しいぼっち」に見えていたかもしれませんが…

自由に選べるはずが手間が増えた気がする

今では、TVer、Netflix、Prime Video、YouTube Music、‎Apple Musicの登場により、好きなタイミングでドラマや映画を観て、音楽を聴けるようになりました。学生の頃から、なんでもかんでも1人で楽しんでいた僕にとっては良い時代になったはずでしたが、何かが違っていました。

例えば、CDデッキで音楽を聴いていた頃は、ふと音楽が聴きたくなっても、CDの交換が面倒だからと、CDデッキに入っているCDを聴くこともしばしばでした。その結果、何度も同じアーティストの楽曲を聴くことで、そのアーティストの過去の楽曲を深掘りすることもありました。

今ではスマートフォンの音楽アプリを利用すれば、それこそ1億曲以上の中から選びたい放題かもしれませんが、アプリを起動するたびに「どんな気分ですか?」「今よく聴かれている曲はこちらです」「あなたがよく聴く楽曲と似た曲を選びました」と聞かれ、僕にとっては再生ボタンを押すまでに考えなきゃいけない作業が多すぎて、結局音楽を聴くのを止めるということがあります。

一生涯では観終わらない作品が追いかけてくる

1日は24時間であり、人間の1日で使える時間に変化はありません。むしろ、少子高齢化や人手不足などの理由からやることが増えて趣味に回せる時間は減っているかもしれません。しかし、動画配信サービスを一例にすれば、毎日のように僕が一生涯で観ることができない作品をお勧めしてきます。

時間に追われる日々を過ごす中で、僕も含めて現代人は「情報を効率よく消費したい」「選択に失敗して時間を無駄にしたくない」と考えるようになり、情報や時間への捉え方が変容しているように感じています。

アプリに「あなたの好みに合わせた作品です」とおすすめを表示してくれても、予告映像や解説文だけでは作品の良し悪しが分からず、観るのを躊躇してしまいます。映画雑誌から情報を得ていた時代なら、「この映画評論家がお勧めするならまず間違いないだろう」と判断することができました。

映画雑誌がないなら検索に頼ろうと、検索サイトの検索結果に表示されている「観ておくべきSF映画」「悩む暇があるならこれを観ろ!」と書かれているWebサイトを見てみますが、Webサイトごとにお勧めする映画が異なり、結局、観なきゃいけない映画が増えるだけで何も解決しなかったりします。

受動的な環境から能動的な環境になったことで、映画や音楽の評論家という「信頼できる指標の不在」という状況になりましたが、僕の中で、アプリのお勧めはアルゴリズムの特性上「信頼できる指標」として信用しきれない部分があります。

そのため、「おすすめ」を眺めつつ、観る作品を選択する必要が生まれましたが、選んだ映画が自分の好みでない場合の「時間を無駄にしてしまった」という後悔を避けたいという思いがあり、なかなか再生ボタンを押せない自分がいます。

自分で観るものを選択できるようになったことで「誰かに言われたものを観ている訳ではない」という状況から解放されたはずが、自分で観るものを選択しなきゃいけないという「選択の負荷」が増えたようにも感じています。

特に「確定する」ことを苦手とするADHDには、常に選択が迫られ、心の負担というほど重いものではないものの、なかなかのしんどさを感じています。

最後に

動画や音楽配信サービスのアルゴリズムがブラックボックス化している以上、表向きは利用者の好みに合わせて表示しているはずの「おすすめ」に提供側が観せたい作品や流行らせたい作品を意図的に表示している可能性は否定できません。

とはいえ、そこは利用者は抗えない部分なので気にしても仕方がありませんし、「細かいことを言っていないでアプリに表示されている『旅に合う曲』『チル』でも選んで聞いてろ!」と思われているだろうと感じています。

ただ、ADHDの影響なのか言葉が持つ意味に強いこだわりを持つ僕にとって「別に旅行に行きたいわけでもないし、チルを求めている訳でもないし…今ってどんな気持ちだっけ?」と内省してしまうため、なかなか選ぶことができません。

自分で選んでいるようで選ばさせられているのか、はたまたその逆か、そんなことを感じながら、「信頼できる指標の不在」「時間を無駄にしたくないという思い」「確定することを苦手とするADHDの特性」に抗いながら、今日も何かの選択を迫られています。

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2004年よりWebサイト制作に携わり、2010年から山口県山口市で、Webサイトの制作や更新を専門とする個人事業主として制作業務を行なっております。

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