僕は長年、加齢とともに考えの柔軟性の幅が狭くなることはあっても、若い頃から頑固な方はずっと頑固だし、優しい方はずっと優しいと考えており、人間が生まれ持った本質はそんなに簡単には変わらないだろうと考えていました。

しかし、2020年1月に突如として始まったコロナ禍をきっかけに、世の中の考え方が大きく変化したように感じています。でも実際はコロナ禍までに変化をするための土壌はすでに整っており、コロナ禍によって、それらの大きな変化が受け入れられやすくなったと考えるべきかもしれません。

そんな中でも衛生観念は大きく変化したように感じており、コロナ禍以前も秋冬などは特に外出時はマスクを付け、帰宅時は手洗いやうがいをしていましたが、手洗いやうがいが今まで以上にしっかりとするようになった気がします。

また、今までならどことなく体調の悪さを感じていても「せっかくの計画が無駄になる」と予定を優先する傾向がありましたが、少しでも体調が悪いと感じた場合は外出はせずにしっかりと休むようになった気がします。

そして、その変化は僕にも起きていたはずですが、スマートフォンのアプリに残してあったメモ程度の記録では、コロナ禍前の僕の気持ちや考え方が、コロナ禍以降にどの程度、変容したのか比較できませんでした。

そこで、未来の自分が過去の自分と比べて気持ちや考え方が変容した痕跡を感じ取るためにブログに残しておこうと考えました。

変容が早送りだったことで実感できた

人間は死亡率が高い未知のウィルスの出現や、戦争状態に突入するなど、存続が脅かされる状況に陥ると、考え方が急速に変容し、まるで社会が早送りで変化するのではないかと考えています。

コロナ禍初期は有効なワクチンがなく、まさに人類存亡の危機ともいえる状況で社会や人間の考え方が急速に変容したことで、僕も自分自身の変化を実感することができたように思います。

でも、実際は私たちの中では認識できない程度の小さな変化が毎日繰り返し起きているのではないかとも感じています。

実は毎日少しずつ変化している

僕がスマートフォンのアプリに残してあったメモでは、僕の内面の変化を比較することはできませんでしたが、僕が毎日仕事で制作しているWebサイトには僕の小さな変化が克明に記録されています。

基本的なWebサイトの制作は、20数年前からHTMLやCSS、JavaScriptなどを利用しており、大きく変化していないように感じますが、記述方法は大きく変化しています。

特にCSSは新しいプロパティが定期的に追加されますが、定期的なブラウザのアップデートに合わせて利用可能になるため、以前ならCSSとJavaScriptを併用しないと実現できなかった動作が、今ではCSSだけで実現できることも当たり前になりつつあります。

Webサイトは制作作業をしている時点で、僕がベストと考えている方法で制作していますが、その時はベストと考えていた制作方法が、数年後にはあまり使わなくなった手法で制作されていることがあります。

Webサイトの更新作業では依頼者から依頼された部分しか変更や調整していないと思われていると感じています。確かに依頼内容によっては、依頼された部分しか作業しないことはありますが、定期的な更新作業があるWebサイトでは、常にWebサイト全体を俯瞰して、微調整を繰り返しています。

しかし、数年に1度しか更新作業をしないWebサイトでは、Webサイトの制作方法を確認しながら「なぜお前はこんな面倒な作り方をしたのか?」「なぜお前はこういう調整が依頼されることを想定しなかったのか?」と感じることがあり、まず過去の自分との対話から始めることになります。

そして、過去の自分との対話の中で「数年でこんなにもCSSの書き方が変化していたのか…」と実感することがあります。つまり、自分の中では常に同じ方法で制作していると考えていたことでも、実は毎日少しずつ変化を繰り返し、数年後には目に見えて違うものになっていることを実感しています。

これはWebサイトの制作に限った話ではなく、例えば、Photoshopのレイヤー分けや、Illustratorのベジェ曲線の引き方1つにしても、数年後には以前に制作したデータとでは大きく異なっている場合があります。

ブログの内容の変化はもっと大きかった

僕のブログは日々の生活の中で感じたことを綴るように心がけていますが、その結果、AIとのやり取りで疑問に感じたことがテーマになっているブログがいくつかあります。

そして、AIの進化が速いことも相まって、あるブログでは「AIはセンシティブな質問や政治的な質問にはブロック機能が動作するのでそういう質問は避けるようにしている」と書いてあるのに、数カ月後には「最近のAIはセンシティブな質問や政治的な質問にもある程度中立性を保ちながら対応してくれるので便利」と書いていることがあります。

その結果、数カ月前に書いたブログを読み返すと「こんな古い内容が書いてあるのか…」と感じることがあります。ブログはストック型コンテンツであるため、過去の内容がある種の資料になる側面はありますが、たった数ヶ月でブログの内容が「古い」と感じてしまうことは想定外でした。

文章の書き方が変化している気がする

自分が書いている文章の「この部分がこのように変わった」と客観的に捉えるかとできず、本当になんとなくなのですが、僕がブログを書き始めた頃の文章の書き方と、現時点での文章の書き方がどことなく変化しているように感じています。

自分でもなんとなく変化がわかる部分として、ブログの練習を始めた初期の頃は文章では、段落のの切り替えには「そして」「しかし」「だから」「あるいは」などの接続詞を多用していましたが、最近では「それでいて」「そうであっても」「だからこそ」のような接続助詞や前後の文章をつなぐ接続的な働きをする表現を多用するようになりました。

この変化が何をもたらすかは分かりません。ただ、ブログを書き始めた頃は、文章の中に伝えたい情報以外の表現は可能な限り省いたほうが読みやすいのではないかという感覚がありました。

しかし、ブログを書き続ける中で、文章を読むことは読解力能力だけではなく、文章内のリズムも必要なのかもしれないと感じるようになったことが影響しているようにも感じています。

そして、終わりなき不安

僕は思考の視覚化や長文を書く練習のつもりで、四苦八苦しながらブログを書き続けており、今でも「AIは読みやすいと言ってくれるけど、人間にとってこのブログは読みやすいのか」との不安が拭いきれずにいます。

また、友人などに「このブログどう思う?読みやすい?」と聞くのも気恥ずかしくて聞いたことがありません。なにより長年の友人たちは僕の性格に配慮して、そして大いに気を使って「んーまぁどっちかいうと分かりやすいかな」と答えるはずです。

その結果、この不安が解消することは永遠になさそうです。

ブログは見返さないほうが良いのかも

ここまで長々と書いてきましたが、やっとこの辺で、ブログは見返さないほうが良いのかもしれないと考えるようになったことに触れたいと思います。

SNSの不可逆性が好きになれない」でも書きましたが、僕がブログを書き始めた1つ目の理由そして、投稿後に誤字脱字に気が付いても編集できないSNSへの不満を解消するために、いつでも自分の好きなタイミングで自由に編集できるブログを書き始めました。

しかし、現時点で過去のブログを読み返した際に「今ならこんな表現はしないのに…」「今ならもっとこの部分を掘り下げられるのに…」「今ならもっと読みやすく書けるはずなのに…」と考えてしまい「編集したい!」との欲求に駆り立てられます。

ただ、僕がブログを書く2つ目の理由として、未来の僕に向けて過去の自分がどんなことを考えていたかを視覚化するという目的があります。

いつでも自由に編集ができるからといって、過去のブログを編集した場合、過去の僕の気持ちや考え方が、現時点での僕の気持ちや考え方で上書きされてしまい、過去のブログが僕の考え方がどの程度変容したかを比較する資料と呼べなくなります。

編集できないことへの不満に対応したら、編集できることへの不満が生まれ、人間とはつくづく業が深い生き物だと感じさせられます。

最後に

ブログを書き続けることで僕の文章読解力が向上していると考えると、今の僕はブログを書き始めた頃の僕よりも良い文章が書けているかもしれません。そうなると、過去のブログを今の感覚で修正を加えた方が、ブログは読みやすくなると考えられます。

このなんとか抑えている衝動は「誰かに見せるならより良くしたい」との欲求が根源にあると考えています。

しかし、誤字脱字以上の過度の修正を加えた場合、未来の僕に対して書いたはずの過去の思考の断片が薄れてしまい、現在の考え方を比較するための資料として意味を成さなくなります。

結局、僕は永遠に「修正したい!」「修正しちゃ駄目だ!」という相反する気持ちとの折り合いの付け方を模索し続ける人生のようです。

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2004年よりWebサイト制作に携わり、2010年から山口県山口市にて、Webサイトの制作、更新を専門とする個人事業主として制作業務を行なっております。

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