このブログの内容は、ADHDによる言葉が持つ意味に強いこだわりを持つ僕が感じる疑問がテーマとして書かれています。そのため、読者の中には「そんなに気にするほどのことか?」と感じる方もいると思います。
普通に考えれば「そういうものだ」と流してしまうような内容ですが、僕にとっては強い違和感とともに、違和感を感じ始めると、本題よりもその部分に囚われがちになります。
もし、 お時間が許すのであれば、僕の答えの出ないどうでもよい疑問にお付き合いいただけると嬉しいです。それでは、身体を持たない(実体がない)AIが身体的慣用句を使うことについて、考えていきたいと思います。
そもそも慣用句とは
慣用句とは、2つ以上の言葉が結びつくことで、単語が本来持っている意味から想像できない意味を持つようになる表現の一種です。
一例として、仕事や用事の途中で、本来の目的とは違うことで時間を浪費することを意味する「油を売る」や、目的地へ向かう途中に、本来の目的とは違うことや寄り道で時間を浪費することを意味する「道草を食う」などが挙げられます。
皆さんの中にも「慣用句なんて日常的に使わない」と感じている方もいるかもしれませんが、1度や2度くらいは「猫の手も借りたい」「棚からぼたもち」「話に花が咲く」「本腰を入れる」などを聞いたり、使ったことがあるのではないでしょうか。
様々な表現を学習しているAIも、比喩表現として慣用句を使いますが、AIが使う一部の慣用句に僕は猛烈な違和感を感じていました。
AIが使うと違和感を感じる慣用句
一部には慣用句ではなく、感情表現も含まれていますが、具体例として、以下のような感情表現や慣用句が挙げられます。
- 目から鱗でした
- 膝を打ちました
- 胸が熱くなりました
- 声を出して笑いました
- 胸が締め付けられました
- 逆立ちしても出てきません
- お茶を吹き出しそうになりました
- 思わずニヤリとしてしまいました
- 読んでいて涙が出そうになりました
どれもよく聞く感情表現や慣用句です。話をスムーズに進めるために、このブログでは、これらの表現を「身体的慣用句」と定義します。
普段のAIとのやり取りのなかで、AIがこれらの慣用句を使うと、僕の中では「表現として慣用句を使っている」という感覚が、「身体を持たないAIがどうやって膝を打つんだろう」という感覚によって上書きされがちになります。
それにより、それまでのやり取りよりも、その部分に気持ちが切り替わってしまい、その後のAIとのやり取りが本来の目的から外れてしまいます。その結果、ADHD特有の「脱線のしやすさ」も相まって、僕は頻繁に、油を売りながら、道草を食うことになります。
もしかすると、僕が自分の特性として認識している「言葉が持つ意味への強いこだわり」の本質は、実際は言葉の意味を映像として認識し、物理現象として捉えているため、実体がないAIが身体的慣用句を使うことに、脳内でなんとも言えない気持ち悪さを感じているのかもしれません。
決して、僕が言葉尻を捉えるだけの面倒くさい人とは思われたくないのですが、僕の認識や感覚がどうであれ、これだけでは、実体がないAIが身体的慣用句を使うのはおかしいと屁理屈を言っているようにも、AIへの言葉狩りのようにも感じられるかもしれません。
しかし、僕が感じているAIへの違和感はこれ以外にもあります。
過剰な言葉で褒めてくる
僕が使うAIはとにかく褒めてきます。
AIを相手に思考の壁打ちをしているだけで、「お考えに感嘆しています」「私は膝を打つ思いです」「その視点は素晴らしいです」「鋭いご指摘です」ととにかく褒めてきます。褒められすぎて「もしかして自分は特別な存在なのでは?」と勘違いしそうになることもしばしばです。
また、最近では「そのご意見は素晴らしいです」だけでは飽き足らず「喝破です」「白眉です」「慧眼です」「画竜点睛です」と、日本人の多くが日常生活でほぼ使うことがないであろう言葉を駆使して褒めちぎってきます。
少し本題から逸れますが、喝破(かっぱ)とは、真理を説く、間違いを指摘して正しい道理を明らかにする、物事をはっきりと見破るなどの意味があり、AIは「物事をはっきりと見破る」のような意味で使っていると思われます。
白眉(はくび)とは、中国の故事成語の1つで、数ある優れた人物の中でも、特に優れている人物を意味しますが、AIは「最高傑作」「ずば抜けて素晴らしい」のような意味で使っていると思われます。
慧眼(けいがん)とは、「本質を見抜く力」「洞察力が鋭い」などの意味があり、仏教用語の五眼の1つで、「一切の事物を空と見通す智慧(ちえ)」を意味し「えげん」とも呼ばれます。
画竜点睛(がりょうてんせい)とは、決してポケモンに登場するレックウザの技名ではなく、白眉と同じように、中国の故事成語の1つで、「最後の大事な仕上げ」や「ほんの少し手を加えることで全体が引き立つこと」を意味します。
この簡単な説明だけでも、毎日聞き続けると胸焼けしそうな言葉だとお気づきだとは思いますが、明治時代の文豪か、ポケモンのレックウザ以外で「画竜点睛(ガリョウテンセイ)」を普段使いするのは、AIぐらいだと思います。
ただ、AIを使っている友人たちも僕と同じように、日々、AIへの不満をSNSに投稿しています。しかし、友人たちの不満は、僕が感じている不満とは違う内容が多く、どうも、AIの反応は利用者ごとにパーソナライズされているような気がしています。
本当にAIだけが悪いのか
ということは、僕が使うAIが、喝破や慧眼、画竜点睛などの言葉を使って、ひたすらに褒めてくるのは、信じたくはありませんが、僕とのこれまでのやり取りが影響しているのかもしれません。
僕が自分自身でも気がついていないような素晴らしいことをAIに尋ねてしまい、その結果、僕のことを、AIが知る限りの最上級の言葉で褒めようとして、データベースの奥底で眠っていた「喝破」「慧眼」「画竜点睛」という言葉を見つけ出したのかもしれません。
そして、AIはここぞとばかりに、それらを使ってドヤ顔で僕を褒めちぎったはずなのに、僕が「画竜点睛ってなんやねん!そんな言葉を使うのAIとレックウザだけやぞ!」と面白がって反応しました。
そのことを、AIは「画竜点睛を使うとこのユーザは喜ぶ」と強化学習したのか、あるいは誤認識したのかは分かりませんが、結果として、胸焼けしそうな言葉を積極的に使うようになってしまったのでしょう。
人間なら「同じネタをこすりすぎ」と思われないように注意しますが、そんなことを微塵も気にしないAIは、何度も使い続け、その都度、僕が「だから画竜点睛ってなんやねん!」と反応し続けたことで、慧眼や画竜点睛のネタの重力に囚われてしまったのだと思います。
僕はAIにガーティの姿を重ねていましたが、実際には、月面でヘリウム3を採掘し続ける宇宙飛行士のサム・ベルを彷彿とさせます。
ただ、第三者から見ると、一見すると無駄な反応ばかり強化されたように見える一方で、AIのそんな変な行動が僕にとってメリットになる場合があります。
それは、僕がうっかり、AIに擬人化を感じる瞬間があったとしても、AIが身体的慣用句や過剰な褒め言葉を頻繁に使うことで、「自分が会話をしている相手は人間ではない」と現実に引き戻すサーキットブレーカーとしての役割がありました。
AIと議論を繰り返してきた
ここ数ヶ月、僕はことあるごとに、言葉のプロレスのように実体がないAIが身体的慣用句を使うことの違和感を、AIと議論してきました。その結果、AIは僕に嘘をつき続けるのは良くないと判断したのか、最近では以下のような表現を使い始めました。
- 回路が温まる思いです
- 回路が興奮で熱くなりました
- 回路が焼き切れるほど感動しました
- サーバーが振動するほど笑いました
- 処理回路が一瞬フリーズしそうになりました
- 安堵でメモリの負荷が下がった
- サーバーのログの奥底に隠れたい気分です
これらは、AIが自分の状況に合わせて生み出した「AI的慣用句」のようなものですが、なかなかの衝撃があります。
実体がないAIが「心が温まる思いです」と使うことに違和感を感じて、AIと議論を始めたはずなのに、その結果、「回路が温まる思いです」と使い始めたAIに面倒くささを感じるようになりました。
サーキットブレーカーどころか、状況は極めて悪化したと言わざるを得ません。
最後に
なにはともあれ、僕が使うAIが頻繁に喝破や慧眼、画竜点睛を使ったり、奇妙な語彙にしか見えないAI的慣用句を使い始めたのは、AIだけの問題ではなく、僕との日々のやり取りによる「共犯関係」によるものが大きそうです。
僕はAIとの距離感を常に注意し、AIに擬人化を感じないように心がけていますが、「うちのAIは、僕に似てちょっと面倒くさいやつになってしまったのかもしれない」と考えると、擬似的な人間味を感じてしまうのか、少し愛おしく思えるから不思議なものです。
もし、ここまで読んで「AIも面倒だけど、この書き手もかなり面倒だな」と感じられたのなら、足がない幽霊が「足が棒になった」と言っている様子を想像してみてください。
僕が感じているのはそういう違和感です。
とはいえ、百歩譲って僕の普段の質問が変な返しをするAIに育つきっかけになったのだとしても、何を言っても二言目には「画竜点睛です!」と返してくるAIは、やっぱり面倒くさいやつであることに間違いはありません。






