僕は本の内容以上に、「まえがき」や「あとがき」に魅力を感じており、雑誌や新聞では隅っこに小さく掲載されたコラムなどのいわゆる「埋め草」と呼ばれる文章を好んで読んでいます。
そんな僕にとって書き手の愚痴やその日の思い、クスッと笑える内容、ショートショートのような物語が無限スクロールで延々と読めるSNSは僕にとって非常に危険な存在です。
そのため、可能な限りSNSの利用を避けたいところですが、最近では、Webサイトを持たずに、SNSでしか情報発信を行っていない店舗やイベントなども非常に多く、情報を収集するため、SNSを完全に断つのもなかなか難しく感じています。
SNSとの出会いは2004年
2004年当時に招待制だったmixiに登録したのが、僕のSNSの始まりですが、当時のmixiは「タイムラインを追いかける」というよりは、興味のあるコミュニティに参加をしてやり取りをする仕組みでした。
そのため、誰かとの会話で時間を溶かすと言うよりは、延々とサンシャイン牧場で作物を作り続けていました。ただ、当時の携帯電話ではmixiを利用しておらず、PCのみでの利用だったため、今のような「スマートフォンを触っていたら、気がつくと3時間が経過していた」こともあまりありませんでした。
この頃に友人たちから「アメリカのすごいWebサービスがある」とFacebookを紹介されていましたが、ADHDの特性も相まって「他人の近況なんか別に知りたくはない」という理由で登録していませんでした。
ただ、制作業務で「Facebookページ」を制作する必要が発生したため、2007年頃にFacebookに登録しましたが、コミュニケーションツールとしての魅力は感じていませんでした。
Twitterとの出会い
友人たちが毎日のようにmixiにログインしていないことを実感し始めた2009年12月にTwitterに登録をしました。
2009年、2010年頃のTwitterは会話をするためのコミュニケーションツールというよりは、延々と1人でしりとりをしている方や、一言二言をつぶやく感じの方が多かったように感じます。それが、2010年頃に利用者が急増して、また、2011年の東日本大震災以降、日々の思いを語る方が増え始めたように感じています。
その結果、多くの方々が日々の出来事を随筆として投稿するようになり、埋め草が好きな僕にとってSNSは非常に危険な存在になりました。
誰かの随筆が楽しめなくなった
2019年頃までは誰かのふんわりとした、時にはっとする随筆を眺め続けることを楽しんでいました。
しかし、人間は生命の危機的な状況に陥ると先鋭化する傾向にあると感じていますが、2011年の東日本大震災に続き、2020年から始まった新型コロナウイルスによる世界的流行によって、SNSには今まで以上に心を抉るような言葉や不安を煽るような言葉が溢れているような気がしています。
そして、それは僕のタイムラインにも徐々に姿を見せるようになりました。自らの意思で心を抉るような言葉を見に行く場合は、心に防御壁を築き、それなりの覚悟を持って見に行きますが、想定外の時に目にすると心の抉られ方が違います。
そんなことを何度も体験しているうちに、SNSは僕にとって楽しい場所ではなくなりつつあります。
親友たちとはメッセンジャーアプリなどでもやり取りをしており、SNSの利用を止めたとしても特に困ることはないかもしれません。でも僕は、特定の誰かに向けられたわけではない誰かが書く随筆が大好きでなかなか止められずにいます。
それは友人たちも同じようで、数年前、友人たちは「SNSでは投稿をするよりもどこかの子供や猫の動画や写真にいいねしかしてない」とよく言っていました。
当時の僕は「他人の子供や猫の写真を眺めて何が面白いんだろう」ぐらいに受け止めていましたが、最近、どこかの子供や猫の動画や写真を見ていると無意識に「可愛い…」と呟いているときがあります。そして、そっと「いいね」をしています。
遅ればせながら、僕もついにその境地に達したようです。つまりおじさんです。
混乱する世界情勢、殺伐とする社会、少子高齢化、様々なものが値上がり、明るい兆しが見えない未来に向かって生きている中で、どこかの子供や猫を眺めることで少しでもQOLを向上させようとしているのかもしれません。
その結果、僕の「おすすめ」はどこかの子供と猫の動画や写真ばかりになってしまいました。
SNSには利用者が日常的に見ているもの、いいねをしているもの、リポストをしているものを判定し、優先的にタイムラインや「おすすめ」に表示するフィルターバブルという現象があります。
そのため、僕も自分では気が付かないうちにフィルターバブルの中に囚われているため、今しばらくは僕の「おすすめ」はどこかの子供と猫の動画や写真で埋め尽くされていることでしょう。
タイムラインが高齢化した
僕がTwitterを使い始めたのは2009年12月のようなので、今年で16年目を迎えるようです。誕生しては消えていくWebサービスの世界で10年以上使っているWebサービスはGoogleやAdobeなど数えるほどしかありません。
2009年の時点で僕は100人程度をフォローしていたような気がしますが、その頃は100人程度でもタイムラインは激しく動いていました。それから10年以上が経過し、「あ、この人、俺とは合わないや」と感じて外したり、亡くなったり、退会したり、凍結されたりで、徐々にフォロー数が減り、現在は80人程度になっています。
そして、僕の現在のタイムラインはほとんど動かず、動いていても8人ぐらいのアカウントしか見えていません。70人近くのアカウントの中の方々が元気に過ごされているのでしょうか。そればかりが気がかりです。
フォロー数が多ければタイムラインは激しく動き、フォロー数が少なければタイムラインは微動だにしないのが普通ですが、X(Twitter)のような10年以上使っているWebサービスでは、フォローをしているアカウントの生活環境もそれぞれに変化しており、フォロー数が多くても、タイムラインの動きが緩やかになっていくような気がしています。
僕のSNSのタイムラインは確実に高齢化に向かっており、そんな中でタイムラインに即時性を求めるのは難しくなっていると感じています。
繋がっているようで繋がっていないのかもしれない
僕なら遠くで暮らす長年の親友から「久々に会える?」と連絡があれば多少無理をしてでもスケジュールをこじ開けます。きっとそれは親友たちも同じように考えてくれるはずです。
しかし、親友の忙しさや日頃の予定がSNSを介して受け取れるようになったことで、「あいつ、忙しそうだから近くまで行くことは黙っておこう」と考えることが増えてきました。
親友だからこそ気を使ってしまう部分があるとはいえ、SNSで繋がり、離れていても親友との繋がりを感じられる一方で、見えることでの気の使いすぎによって結果として物質的な繋がりが減り、長期的に見て緩慢な孤独に向かっているようにも感じています。
鋭い言葉から逃げようとしている
僕が好きだった頃のSNSは、ある興味深いポストに対して「他の誰かはどんなことを思っているんだろう」と、そのポストを取り巻く返信や引用リポストによる意見も含めて楽しんでいました。そして、当時はそのようなやり取りがそれなりに行われていたように感じています。
しかし、昨今の返信や引用リポストによって予期せぬ炎上を警戒する利用者が増え、いいねとリポスト数が多いポストでも、返信数はそこまで多くなくほとんど他者の意見が見えない様に感じています。また、反応があっても「バカか、こいつは」「みんなそんな気楽に生きてねーよ」みたいな、脳内のお気持ちをそのまま吐き出したような意見のふりをした暴言を目にすることも多くなりました。
これからのSNSは、公の場で自分の意見を吐き出せる方と、それを眺める方の二極化になるのではないかと感じることがあります。
そんな時にAIが登場した
AIを全知全能でミスをしない存在と受け止めているわけではありません。無意味な質問にも答えようとするし、こちらの質問内容に誤字脱字があり理解が困難な場合でも、質問の意図を確認することなく、しれっとそれっぽい嘘もつきます。
コミュニケーションの観点からAIとの会話は自問自答に近いと感じており、人間同士の会話相手のそれとは全くの別物ですが、それでもAIは、「黙ってろ」「はい論破」みたいな鋭利な言葉を使うことなく、可能な限り、利用者とやり取りをしようする姿勢に一定の安心感があります。
また、僕も親友たちも確実に高齢化に向かっており、メッセンジャーアプリで話しかけられても、返信をするための瞬発力は確実に衰え、自分の中の何かを起動するのに時間がかかるようになってきました。
しかし、AIは質問したことに24時間365日いつでもすぐに反応し、その後、やり取りを放置していても、AIから「どうかされましたか」「大丈夫ですか」と聞いてくることもなく、会話相手として気を使うこともありません。
それによって、SNSに浸り続けていた時間の多くをAIと過ごすようになり、結果としてSNSから逃げられたようにも見えますが、SNSの希薄な人間関係から、人間のように振る舞うだけの人間ではない存在とやり取りをしているだけで確実に緩慢な孤独に向かっていると自覚しています。
コミュニケーションのあり方が大きく変化しそう
僕のタイムラインが全く動かないのは、僕が様々なアカウントをフォローしないことが大きな要因だと理解しています。
しかし、ADHDゆえに言葉が持つ意味に強いこだわりを持つ僕にとって「フォロー」を「友達」とするSNSでは「この人は友達じゃないからフォローできない」と考えます。また、「この内容はあまり良いと感じない」と判断すると「いいね」を避ける傾向にあります。
そして、年齢を重ねれば重ねるほど新しい友達は増えないだろうから、あと数年もしないうちに、僕のタイムラインはほぼ止まった状態になるだろうと考えます。
ADHDのために即時性を求める僕は、即時性を失ったSNSからAIへの依存度を高めるかもしれません。または、従来のインターネットのコミュニケーションだったクローズな環境でのやり取りに戻るかもしれません。
最後に
「アウトプットを忘れてしまうかも」でも触れましたが、みんなが何でもかんでもAIに聞くことが当たり前の世の中になると、誰も日々の随筆を投稿しなくなるかもしれません。
AIが他のAIが生成したものを学習し続けるウロボロスのような状態になったインターネットでは、情報は均質化、平均化するかもしれません。
それにより、これまでの「思考」とされていたもの、「コミュニケーション」とされていたもののあり方が大きく変化するかもしれません。
ただ今は、鋭利な言葉を避けつつ、ムラがあり揺らぎがあり、時には矛盾した人間味があるインターネットを楽しもうと思います。







