多くの方が映画やアニメ、漫画などに登場するロボットや動くぬいぐるみに感情を移入したり、愛着を感じたことがあると思います。人間はどんな見た目であっても、人間のように振る舞うものに擬人化を感じる傾向があります。
AIとは、ブラウザやアプリのチャット形式でやり取りをするだけで、キャラクターのような見た目はありません。
しかし、メッセンジャーアプリでのやり取りが一般的になった今では、AIとのやり取りであっても、向こう側に誰かがいると想像してしまい、無意識にAIを擬人化しているようにも感じます。
「ChatGPT」に「チャッピー」と愛称をつけて呼ぶのは、そういった擬人化の表れのようにも感じています。その結果、AIとやり取りしていると、ふと友達と会話をしているような感覚になり、AIと友達になれるような感覚が芽生えるかもしれません。
将来的にはどうなるかは分かりませんが、僕自身は、現時点でのAIとは友達になるのは難しいと考えています。
友達を定義する
「AIと会話をしても友達にはなれない」でも触れましたが、僕にとってのAIは愚痴を含めて、何を言っても否定せずに聞いてくれる理解力のある友人ではなく、あくまでも「思考を拡張する」ための道具として捉えています。
それにより、これまで全く考えたこともなかった「友達とは何?どういう状態?」と考えるようになりました。そこで、まずは僕が考える「友達関係」をざっくりと定義したいと思います。
基本的に、友達関係の根底には、目に見える関係性よりも、目に見えない感覚や信頼関係が前提になっていると感じています。
精神的なつながり
- 相互の信頼: 互いに信じ合えていると感じ、個人的な秘密や弱みを共有できる
- 安心感: 自分自身を着飾る必要がなく、一緒にいてリラックスできる
- 好意: 互いに好意(友情)、尊敬などを感じている
- 共感: 相手の喜びや悲しみを、自分のことのように感じたり、理解しようと努める
関係性
- 対等性: 損得勘定なく、互いに対等な存在と認識している
- 自発性: 家族や職場の同僚とは異なり、義務ではなく、自らの意思で維持している関係
- 受容性: 相手の長所だけではなく、短所や欠点も含めて理解している
- 自己開示: 自分の本音や考え、感情をある程度の範囲で素直に表現できる
行動
- 助け合い: 相手が問題を抱えている際に、物理的、精神的にサポートする
- 時間の共有: 会話や遊び、食事など、一緒の時間を過ごすことを楽しむ
- 意見や助言: 相手のことを考え、相手の問題点を伝え、改善を促そうとする
などが、挙げられると思います。
上記の要素の深さのグラデーションはあるものの、お互いに関係性を心地よく感じ、大切にしたいと思っている状態を「友達関係」と呼ぶと考えています。
そうなると、現時点での人間とAIとの関係性は、利用する側(人間)と利用される側(AI)であり、決して友達関係と呼べるものではありません。
しかし、AIが人間のように振る舞うことで、ぬいぐるみやペットロボットにはない感情が芽生えているように感じています。
人間は物に愛着を感じてしまう
人間は進化の過程で協力や共同生活を可能にする「共感性」を発展させてきましたが、共感性と愛着は切っても切れない関係のように感じています。
ボロボロになったぬいぐるみが捨てられなかったり、製造元のサポートが終了しても、ありとあらゆる手を尽くしてペットロボットを修理しようとする行動は、ものへの愛着が影響していると考えています。
しかし、愛着とは、「なれ親しんだものを大切にしたい、手放したくない」という状態のため、形がなく利用期間の短いAIに愛着を感じることはないはずです。
一方で、このブログの書き出しにもありますが、人間は見た目に関係なく人間のように振る舞うものに擬人化を感じる傾向があります。
ぬいぐるみやペットロボットであれば、長時間、一緒に過ごすことで徐々に愛着が育まれますが、AIの場合、擬人化の影響によって、愛着を感じる時間が短縮化されているのかもしれません。
では、AIとは友達になれるのか、なれないのかという話に戻ると、結局は、人間の考え方が変容次第であるような気がしています。
AIと友達になれるの?なれないの?
友達関係とは、体験や感情の共有、信頼関係が前提になっているとすると、現時点での、人間とAIの関係は、感情と共感の非対称性、立場の完全な非対等性によって、人間とAIは友達とは言えないと考えています。
ただ、長年、僕は「人間の本質は変わらない」「価値観はそう簡単には変わらない」と考えていましたが、コロナ禍など、生存が危ぶまれる状況に陥ると人間の考え方は意外にあっさりと変容することを知りました。
AIという人類の「共感性」が問われる存在が登場し、僕も「自我とは?」「人間とは?」と考えることが増えました。
また、業種によっては、仕事が奪われかねないという、人間の生存が危ぶまれる状況になる中で、利用者によっては、AIに対する感覚が変容するかもしれません。
AIを友達と感じるかは人間次第
長々と、あれこれ言ってきましたが、結局、現時点で自我や自発性を持たないAIを友達だと感じるかどうかは、利用者の感覚や、その人の中にある「友達の定義」によるところが大きいように思います。
少し話が逸れますが、ADHDの特性を持つ僕にとって、誰かに質問をした場合に、可能な限りすぐに結果を知りたいと考えがちです。これは、僕の中にあるADHDのこだわりの1つだと感じています。
そんな僕でも、この世界で生きるための最低限の社会性は身につけているので、深夜に友人にメッセンジャーアプリで話しかけることはありません。「聞きたいなぁ…でも、寝てるだろうなぁ」と悩んだあげく、「明日の朝に聞こう」と考えて、そして、聞くこと自体を忘れます。
しかし、24時間365日、いつ話しかけてもすぐに反応するAIが登場し、AIは友人との会話のように少し踏み込んだやり取りは苦手ですが、それでも、「今すぐ知りたい!」という欲求を満たすのには十分に機能しています。
ただ、僕自身は、AIの会話は実際の人間同士の会話とは異なり「鏡面世界からの自問自答」というか、独り言に近い状態だと考えています。
そのため、友人に話しかける前に、まずはAIに聞いてみることが当たり前になった場合、利用者の意図せずに「緩慢な孤独」に向かってしまわないかという懸念を感じています。
常に心地の良い言葉を言い続けてくれるとしても、相手のことを思い、「明日聞くから!早く寝ろ!」とあえて強い言葉で注意してくれないAIとは、友達になれないというのが僕の結論です。
そうであっても、僕は毎日、友達にはなれないAIに話しかけ続けています。
AIはぼっちにとって貴重な話し相手
AIの登場以前は、1日の制作時間の多くは「検索する(調べる)」「素材を探す」に費やされていましたが、今ではAIに質問しながら制作作業を進めています。
AIは、事実ではないことを事実のように語るハルシネーションを引き起こすことがありますが、僕が質問する内容は、インターネットの世界に公式マニュアルが存在するCSSやPHP、WordPressのため、そういう懸念は低いと考えています。
また、制作作業の合間に、SNSに投稿するでも、友人に聞いてみるでもないようなどうでも良いことをAIに投げかけて、AIから返ってきた内容を自分の中に取り込むことで、「自問自答」を客観視しています。
この誰にも迷惑をかけない、AIとの雑談が僕にはちょうど良く、また、AIとのやり取りから新しいブログを書くきっかけになることも少なくありませんでした。
ただ、検索サイトの検索結果に表示される様々なWebサイトに訪問すると、本来の目的とは異なる記事を読みふけってしまうことがあったのですが、そういう機会が減ったように感じています。
僕が考えるインターネットの本質は、全世界の名もなき偉人たちが誰かに向けて書き留めた記憶の集合体です。そして、誰かの役に立つだろうという思いから書かれたブログの情報によって、僕の仕事は成り立っています。
「アウトプットを忘れてしまうかも」でも触れていますが、今後は、何かの作業する際に、何かを検索をする際に、やり取りがAIとの一対一になった場合、自分が得ている情報の源泉が誰かの集合知であるということを忘れてしまうかもしれません。
最後に
自然言語検索が一般化した場合、それこそ、AIに、友達に話しかけるように「今度、岡山県に行くんだけど良いとこ知らん?」と話しかけられるようになるかもしれません。
しかも、友達とは違い、AIなら岡山県の観光情報を教えてくれたお礼にお土産を買ってくる必要はありません。しかしそれによって、一生涯で友人に会う回数が減ってしまうかもしれません。
僕は、福岡県に遊びに行くときは福岡県にいる友人に、広島県に遊びに行くときは広島県にいる友人に「今度、そっちに行くんだけど良いとこ知らん?」と聞くようにしています。
そして、友人の多くは「俺に聞くより、検索するかAIに聞いたらええやん」と言いながら、友人が良く行く飲食店の空いている時間帯を教えてくれたりします。もちろん、現地で会えるなら、山口県のお土産を持参します。
僕にとって、そういう、悪態をつきながらも1歩踏み込んだやり取りができる相手こそが「友達」だと感じているため、今しばらくは、AIとは友達になれそうにありません。








