可逆性という言葉があります。簡単に言うと、ある状態のものが別の状態に変化しても、再度元の状態に戻ることができる性質を意味します。具体的には水は氷の状態になった後に、再び水に戻ることができるため、可逆的であると言えます。
不可逆性とは、可逆性の逆で一度状態が変化してしまうと元の状態には戻れない性質を意味します。具体的には生卵はゆで卵の状態に変化した場合、再び生卵に戻ることができないため、不可逆的であると言えます。
このように私たちが日々触れるものには「一度変化したら、元には戻せない」という性質と、「いつでも元の状態に戻せる」という性質が混在しています。今回は、僕が感じる可逆性と不可逆性を掘り下げてみたいと思います。
デジタルデータは可逆性か?
記憶媒体の劣化を除けば、デジタルデータそのものは劣化しません。この点は可逆的と言えます。しかし、全てのデジタルデータが可逆的というわけではありません。
デジタルデータの不可逆性の主な例としてJPEGやMP3などのファイル形式が挙げられます。これらのファイルはソフトウェアから書き出す際に、人間には認識しにくい情報を削除することで容量を圧縮を実現しています。
つまり、素材サイトなどからダウンロードしたJPEG形式の写真データを直接編集して、何度も上書き保存を繰り返した場合は、人間に認識しにくいデータを削除していることに加えて、再圧縮による情報の欠落が累積するため、次第にノイズが乗るなど、品質が劣化します。
オンラインゲームなどで、一度消費したアイテムは元に戻せないといったケースも、デジタルデータにおける不可逆性の一例です。
このような不可逆性により、ゲームの利用者は選択時に戦略的な緊張感を味わう一方で、気軽に試せないという側面を持ちます。特にゲーム内通貨が有償の場合、プレイヤーが欲しいアイテムを手に入れるまでリセットを繰り返すと、ゲームバランスや運営側の収益化に大きな問題が生じかねません。そのため、この不可逆性はゲーム体験とビジネスモデルの両面から、避けられないものだと感じています。
証拠保全の意味での不可逆性
デジタルデータは基本的に可逆性ですが、一般的なメールアプリは送信済みメールの編集を許可していません。これはメールが発注内容や納期の確認、契約書に準ずる証拠、クレームなどの対応で利用されることがあり、証拠保全や改ざん防止を想定した設計になっていると考えられます。
もし、メールの送信後に送信済みメールが容易に編集できた場合、送信者と受信者で「言った言わない」の水掛け論が発生して、やり取りした内容の安全性や信頼性を著しく損なう可能性が高くなります。
SNSでの不可逆性
SNSでは投稿された内容にいいねやリポスト(再投稿)などにより、拡散して多くの利用者が目にする機会が増える性質を持っています。例えば、感動的な内容を投稿していいねやリポストを集めたのちに扇動的な内容に編集する利用者がいないとは言い切れません。
そのため、SNSでの投稿済みの内容が編集できなかったり、編集できたとしても、編集可能時間が投稿後の15分から30分に制約されているのは、メールと同じように証拠保全や改ざん防止を前提に設計されていると考えられます。
Instagramでは、投稿内容の編集がいつでも可能なため、「おすすめ」や「発見タブ」などで表示される投稿のアルゴリズムには、投稿内容の永続性よりも情報の鮮度やエンゲージメントが重視されているのかもしれません。X(Twitter)やThreadsは、投稿内容の編集を制限することで信頼性と証拠保全を重視していますが、Instagramは異なる思想で設計されていると感じています。
SNSの不可逆性が好きになれない理由
ここまで理解していても、僕が「SNSの不可逆性が好きになれない理由は、ADHDの特性の不注意による見落としと、文字に対するこだわりが影響しているように感じています。
僕はX(Twitter)の有料プランを使用しているため140文字以上のポストができますが、140文字でのポストにある種の強いこだわりのような、美学のようなものを感じています。
そのため、投稿したい内容を何度も調整するのですが、その調整の過程で「てにをは」がおかしくなることがよくあります。それに加えて、ADHDとともに生きる僕の不注意によって誤字脱字が紛れ込み、気がついたときには編集可能時間が過ぎていることもしばしばです。
また、返信(リプライ)は性質上、投稿後に編集できない仕様のため、誤字脱字に気がつけば、すぐに削除をして、再度返信するのですが、ある程度の時間が経過して誤字脱字に気がついた場合は「返信された相手はすでに見ているかもしれない。削除をして返信し直すと困惑するかもしれない」と考えて「修正したい」という気持ちをなんとか飲み込んで、衝動性を抑えるように心がけています。
Instagramがダメだった
2019年に雑貨作りを始め、オンラインショップを開設し、広報活動も兼ねて新作の雑貨や制作中のデザインを積極的にInstagramに投稿していた時期がありました。
先にも述べましたがInstagramは、いつでも投稿内容が修正できるため自分に向いているのではないかと考えていました。しかし、Instagramは文字の修正はできても写真の差し替えができません。
何度も調整や確認を繰り返して投稿したはずなのに、投稿した写真を眺めていると「この部分を2mm右にずらせば良くなるのでは…」「文字サイズを1ポイント小さくした方が良くなるでは…」と感じ始めることがあります。
そう感じ始めると「写真を修正したい!」「この投稿を削除したい!」との気持ちで溢れるため、Instagramを見ないようにすることで衝動性を抑えるようにしていました。そのことが、僕がInstagramと距離を取る要因になった気がしています。
そんな小さな不満の積み重ねが、いつでも自由に修正ができるブログを書き始めるきっかけにつながったのかもしれません。
可逆性と非可逆性
とはいえ、何でもかんでも可逆性であった方が良いとは考えていません。ただ、SNSに投稿した以上、自分が知らない誰かが見るかもしれないと考えると、可能な限り誤字脱字を無くし、自分が納得できる状態の写真を投稿したいと考えています。
どんなに熟考したつもりでも「ここは『思えば』よりも『思えれば』の方がよかったかもしれない…」と悩むだろうし、その都度、修正したくなるだろうと考えると、ある程度制限があった方が諦めがつくのかもしれません。
また、投稿から一定時間しか編集ができないことで、事前に何度も確認しようとするため、誤字脱字を防ぐことができるかもしれません。
しかし、幾度となく確認したはずなのに見落としてしまうADHDによる不注意と「誤字脱字をしたくない」というADHDによる強いこだわりに、どのように折り合いをつけるのかはなかなか難しいところです。
そんな事を考えながら、これからも自分の中の可逆性と非可逆性と対話を続けていこうと感じています。