「高瀬舟」とは、現在の島根県鹿足郡津和野町出身の文豪、森鴎外の代表作の1つです。
江戸時代初期に京都と伏見を結ぶために作られた運河・高瀬川を往来する高瀬舟を舞台に、弟を殺した罪で護送される喜助と、護送役の同心の羽田庄兵衛との会話によって物語が進みます。
ある日、喜助が帰宅すると、病によって兄に迷惑をかけていると負い目に感じていた弟が自害を図ったものの死にきれず苦しんでいました。
咄嗟に医者を呼びに行こうとする喜助に、喉に刺さった剃刀を抜いて楽にしてほしいと懇願する弟に対して、剃刀を抜けば弟が死ぬことを理解した上で喜助は剃刀を抜きます。
物語では、喜助のとった行動が殺人なのか、苦しむ者を助ける行為なのか、安楽死や倫理観というとても重く、そして考え続けなければいけないテーマを読者に投げかけています。
僕と高瀬舟との出会い
本の虫でも文学少年でもなかった僕の「高瀬舟」との出会いは、きっと中学校の教科書だったと思います。
喜助のとった行動は理性で考えるなら罪だけど、感情で考えるなら苦しむ家族を助けようとした愛情以外のなにものでもないという状況は、中学生の僕の心に大きな何かを残しました。
「高瀬舟」が問いかけるような倫理的な葛藤は、現代の物語の中にも見出すことができます。
猗窩座が狛治だった頃の物語
猗窩座(あかざ)とは、「鬼滅の刃」に登場する上弦の参に位置する武闘派の鬼で、作中では肉体の強さを追い求める様子が描かれています。
そんな、猗窩座が狛治(はくじ)という名前の人間だった頃、喜助と同じように貧しい暮らしの中で、寝たきりの父親の薬を買うために、何度も盗みを働きますが、それが結果として父親の自害の引き金になってしまいます。
9月後半に「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」を映画館で観賞しました。漫画は何度も読み返しましたが、映画は視覚だけでなく、聴覚でも情報を受け取るため、漫画から受け取っていたものとは違う印象がありました。
作者の吾峠呼世晴先生は様々なものからアイディアの根源を膨らませて物語を生み出していると考えています。
ただ、それでも漫画の読者、アニメや映画の視聴者としての感想が許されるのであれば、喜助が「静」なら、狛治は怒りが混じった「動」という違いは感じていますが、僕は狛治の物語の中に「高瀬舟」の存在を感じ取っています。
大人になって読み返すと少し雰囲気が違って見えてきた
それはそうと、このブログを書くために、数年ぶりに「高瀬舟」を読み返しました。江戸時代は殺人は死罪の可能性が高いようですが、喜助は温情があったのか島流しの刑に処されました。
そのため、高瀬舟に乗り、大阪まで護送される際に、同心の庄兵衛が殺人の罪を犯した喜助の顔が穏やかなことが気になり、話しかけたことで物語が始まります。
中学生の僕は、喜助が殺人を犯したわけではなく、苦しむ弟を助けられたことで、穏やかなのだろうと考えていました。
しかし、大人になって読み返すと、喜助の生活は決して豊かではなく、京都に自分たちの居場所があったのかも怪しいように感じます。
もしかすると、喜助は幕府から「遠島」を命じられたことで、島流しの罪人が受け取れる鳥目二百文と社会的な居場所が与えられたことで、ある種の安堵のようなものを感じているのかもしれないと考えるようになりました。
大人になると、本来、作者が意図しなかったであろう部分にまで、勝手に意図を感じてしまうから不思議なものです。
世の中は答えのない問題に溢れている
喜助のようなどちらの選択が正しいといえない状況は決して珍しいものではなく、様々な場面で遭遇している人間関係や仕事などの疑問や問題の多くには明確な解決策(唯一解)がありません。
これは「あちらを立てればこちらが立たず」ということわざにもあるように、理想と現実、理性と感情など相反するものですが、私たちは説得や妥協、諦めを駆使してやり繰りしています。
僕はそんなパラドックスともいえる唯一解がない問題を「ああでもないこうでもない」と考えるのが、子供の頃から好きでした。
唯一解がある問題も面白い
ただ、いくら考えても答えが出ないという唯一解がない問題の面白さと、考えることで答えに近づく唯一解がある問題の面白さは別物だと考えています。
例えば、数独や詰め将棋、クロスワードパズルといった1つの答えを探し出すためにトライアル&エラーを繰り返しながら、やがて答えが導き出せたときは大きな達成感が得られます。
しかし、ADHDの特性を持つ僕にとって、数独やクロスワードパズルは、時として過集中のきっかけになるため、時間や心に余裕がある時以外は、無意識に避けていたように感じています。
ADHDが持つ過集中という特性
「過集中」の話をすると友人に羨ましがられがちですが、まず、ADHDは集中状態に入るまでに時間を要する上に、ちょっとしたことで集中力が途切れます。
しかし、一旦過集中に入ってしまうと食事を忘れて作業に没頭するため、昼食が16時以降になることもしばしばです。
長年の経験から過集中という状態は、「元気の前借り」のようなものだと感じており、過集中から抜け出すと途端に猛烈な疲労に襲われ、その後の制作作業が思い通りに進みません。
また、ADHDの特性の1つである衝動性とは思いついたままに行動してしまうことですが、この衝動性は行動だけではなく、思考にも影響しています。そのため、僕の脳内では様々な考えが浮かんでは消えたり、興味が短時間で移り変わる、思考の拡散性のような傾向があります。
答えを出さなくて良いという安心感
「高瀬舟」の喜助の行動は、ある点から見れば「殺人」であり、ある点から見れば「愛情」であり、見方によって答えが異なります。
つまり、僕にとって唯一解がない問題は、「答えを導き出す必要がない」と捉えることができ、思考をあっちこっちに飛ばしながら延々と考えることができるうえに、考えることを止めたいときはいつでも止めることができます。
「なんでもAIに聞かないほうが良い気がする」でも触れましたが、大阪・関西万博のテーマが「いのち輝く未来社会のデザイン」の一方で、会場内で発生した虫の駆除が検討されていました。
決して、どちらの考えが良い悪いという二元論ではなく、会場の快適な環境のためにユスリカの駆除が検討されることで、特定の「いのち」が輝けていない「理想と現実の矛盾」という点で僕にとって興味深い話題でした。
つまり、僕にとっての「唯一解がない問題」は、答えを導き出す必要がない「思考の遊び場」であり、過集中を招きにくい安全地帯ともいえます。
考え続けることはエネルギーを消費する
唯一解がない問題を考え続けることは楽しいですが、「考える」ことは自分が感じている以上に身体がエネルギーを消費しているようにも感じています。
人間が動物である以上、無駄なエネルギーの消費を抑えようとする生存能力が備わっていると考えていますが、世界情勢や様々なものの価格高騰、少子高齢化、家族、職場の人間関係など世の中は考え続けなければいけないことで溢れています。
そんなときにAIが登場しました。
AIは学習で得ただけの知識しかないのに…いや、むしろ学習で得ただけの知識しかないからこそ、遠慮や羞恥心がなく何を聞いても断言的な回答をするのかもしれません。
そんな断言的な回答は人間にとって自分で考えなくても良いという雰囲気を生み出し、「思考の省エネ化」という点で、ものすごく魅力的に映るようにも感じます。
現在のAIは、私たちにとって見た目には危険性を感じない存在に見えていてもドッペルゲンガーのように思考の「死の前兆」として、気がつくと心や知性が奪われているかもしれないという恐怖心が常につきまといます。
そんな恐怖から抗い続けるためにも、僕はこれからも傍から見ると面倒くさそうなことを考え続ける「考える葦」でありたいとただただ願っています。
高津川を見ながら高瀬川を思い出す
高津川とは、森鴎外の出身地でもある島根県鹿足郡津和野町を流れる一級河川です。そして、森鴎外の代表作「高瀬舟」は京都にある高瀬川を大阪に向けて進んでいます。
毎年のようにリアル宝探しで津和野町日原を訪れていますが、ADHDにより短期記憶が低い僕は毎回、目の前の川が高津川なのか、高瀬川なのか悩み、そして、キョロキョロと河川名標識を探しています。
森鴎外も京都の高瀬川を見ながら、一文字だけ違う故郷の高津川に思いを馳せていたのだろうか―そんなことを思いながら。







